幼い頃から神童と呼ばれたモーツァルトにも、ぜんぜん曲が書けない日があった。そんな時の父親のあわてようといったらなかった。
「ウオルフガングや、いったいどうしたというのだ。今日も一曲も書いていないじゃないか。来週のオーストリア皇帝陛下のお誕生日に披露する、バイオリン・ソナタの作曲は間に合うんだろうな」
父親レオポルトの心配そうな顔を見ながら、ピアノの前で頭をかかえている十二歳のモーツァルトは、寂しげな様子でじっと鍵盤を眺めている。
父親のそばで、さっきから本を読んでいる姉のナンネルも、じっと黙りこんでいる。
やがて、モーツァルトは、父親の方を見ると、静かな口調で呟いた。
「お父さん、午後から馬車に乗って、ドナウ川のほとりを散歩してきます。美しいウィーンの町並みを、一時間も見れば、自然と楽想が湧いてくると思います。僕は陰気な部屋の中ではどうも作曲がうまく出来ないのです」
昼食を済ませると、さっそくモーツァルトは馬車に乗って午後の散歩を楽しんだ。軽快な馬の蹄の音を聴きながら、馬車の窓から身を乗り出して、変わりゆくウィーンの町並みを眺めていると、やがて明るい調子のメロディが浮かんできた。
規則正しい、蹄のリズムに合わせて、やがて音楽の神が、この純真無垢で感性豊かな少年に、天国からの素敵な贈り物を届けはじめたのだ。
少年モーツァルトは、すぐさまそれを五線紙に書き写していった。まるで澄んだ泉の水が絶え間なく湧くように、すらすらと音符が埋まっていった。
流れるドナウ川のせせらぎの音、町の公園から聞こえてくる子供たちの笑い声、小鳥たちのさえずり、そして風の音。それらの音が、この少年の音楽に色どりを添える。
やがて、三楽章形式のバイオリン・ソナタは、午後の散歩の時間にすっかりと出来上がってしまった。
幼い頃から馬車にゆられ、いろんな国に演奏旅行へ出かけていったモーツァルトの音楽は、馬の蹄のリズムのように快活で、移り行く馬車の窓から見える美しい風景のように色彩豊かだ。
家にもどったモーツァルトは、心配そうに待っていた父親に、出来上がったばかりのバイオリン・ソナタの楽譜を渡し、すっかりとみんなを安心させたのだ。
(自費出版童話集「白馬の騎士とフリーデリケ」所収)
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