2016年3月31日木曜日

吹雪の夜の往診

 どこもかしこも白一色で、おまけにその夜は猛吹雪だった。そんなすさまじい夜に、車を走らす一人の医者がいた。
 吹付ける粉雪をワイパーで跳ね除けながら、ただっぴろい雪の原っぱの道をもくもくと走っていた。
走りながら医者は、何度も自分に呟いた。
(待ってろよ。あと少しで着くのだから)
医者は、眠い目を擦りながら、自分を待っている村はずれの家へ急いでいた。
医者は疲れていた。今日も診療所にはたくさんの患者がやって来た。朝から晩まで患者たちの診察に追われていた。医者は休みたかった。
 ところが、夜遅くなってから、村はずれの家から、往診依頼の電話がかかってきた。
「先生。早く着て下さい。うちの子供が死にそうです。昨夜から熱が下がりません」
そんな深刻な知らせを受けたこの医者は、冬の嵐の夜にもかかわらず、自分を待っている病気の子供の家に向かっているのだった。
 医者は疲れていたが、仕事を投げ出してしまうような人間ではなかった。
(早く病人の所へ行きたい。そして、その子供の命を救いたい)
そんな思いが、彼を奮い立たせているのだった。けれども、診療所からその家までは20キロも離れてる。それに、今夜は猛吹雪。車は何度となく雪にタイヤを取られ、スリップしそうになった。
 突き刺すような雪混じりの風を受けながら、やっと半分ほどの所までやってきたとき、とうとう車は雪に埋まり、先へ進めなくなった。
(ちくしょう。これ以上は車では無理か)
医者は、診察カバンを持つと車から降りた。そして、あとの半分の距離を自分の足で歩くことにしたのだった。
腰まで積もった雪の道を、医者は雪をかきわけながら歩いていったが、吹雪のために前もよく見えないくらいだった。
しばらくすると、手足がちくちくしてきた。それに身体も冷えてきて、時間がたつうちに次第に意識がもうろうとしてきた。
(がんばるんだ。あと数キロの道のりだ)
医者は、自分にいいきかせながら歩いていったが、吹雪はいっこうにおさまらず、いつしか医者は、疲れのために雪の上にばたりと倒れこんでしまった。
しばらくしたときだった。吹雪の音に混じって、不気味な魔物の声が聞こえてきた。
「お前は、いったいこんな所で、何をしてるんだ」
魔物の声に、医者はふと、意識を取りもどすとその声に答えた。
「おれは、病気で苦しんでいる子供の所へ行こうとしてるんだ」
「はっはっはっ、自分の命を犠牲にしてまでもか。お前は、気の毒なやつだな」
魔物はそういうと、すーっとどこかへ消えてしまった。
 ところが、医者が寒さのために、目を閉じかけた時、また現れて声をかけてきた。
「ずいぶん疲れているみたいじゃないか。そんな身体では、とても人の命なんて救えないぜ。さっさと、自分の家に戻ることだな。それがりこうな人間のやることだ」
 医者はそれを聞くと、一瞬魔物のいうことに耳を傾けようとしたが、
「いいや、おれは人の命を救うことが仕事なんだ。それが、医者としてのおれの使命なのだから」
医者はいいながら、立ち上がろうとしたが、また、ばたりと倒れこんでしまった。
「馬鹿なやつだな。そんな弱った身体で、病人を診ることが出来るのか。それよりも、俺と一緒に来ないか。俺と来れば、お前はもうこの寒さと疲労感から、永久に解放されるんだぞ。もう、人のことなんか考えないことだ。それが普通の人間なんだから」
 魔物の声に、医者は薄れゆく意識の中で、ぼんやり聞き入っていたが、ふと、その時、頭の中で、母親に抱かれて病気で苦しんでいる子供の姿が現れた。
「お母さん、ぼく、どうなってしまうの」
子供は、弱々しい、かぼそい声で母親にいった。
「元気を出すのよ、坊や。もうじき、お医者さんが来てくれるからね」
母親の声を聞くと、子供は落ち着いたようすで眠りはじめた。その情景を見た医者の意識は、突然目覚めたのだった。
医者は、疲労しきった自分の身体をゆっくりと起こすと、診察カバンをしっかと握り、前のように歩きはじめた。だが、吹雪はいっこうにおさまる気配はない。ときどき、さっきの魔物の声が医者に話しかけてくる。けれども医者は、気力を振り絞って、雪の道を歩いて行った。
 やがて、目前に、うっすらと、明るい光が見えてきた。それは、医者を待っている村はずれの家の灯りだった。
医者は、死ぬくらい疲れていたが、家の前へ無事に辿り着いたときには、服に付いた雪をふり落とし、力強く家の戸をたたいた。
 すぐに、戸が開いて、母親が嬉しそうな顔で出てきた。医者は母親の顔を見ると、やさしく、そして、しっかりとした口調でいった。
「もう、心配はいらない。私が来たからねー」  

   



(自費出版童話集「白馬の騎士とフリーデリケ」所収)


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