2024年4月6日土曜日

(連載推理小説)猟奇館事件

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 数日後のことである。学校へ出勤すると職員室の中は慌ただしかった。教頭が教員を集めて次のようなことを話した。
「今朝、となりのY町のY高校の教頭から電話があってY校の女子生徒が通学途中に何者かに誘拐されて行方不明になっているとのことだ。現在、警察が捜査中だ」
この事件は翌日に地元の新聞に報道され、警察や新聞記者がY高校にもやって来て話を聞きに来た。
「何者の仕業だろう。女子生徒はどこにいるのだろう。犯人はだれだろう」
地域住民はだれもが不安がった。特に女生徒の親たちは心配でならなかった。
 となり町のY警察署では、行方不明になっているY校の女子生徒の捜査が本格的に始まっていた。
 事件当日の住民からの聞き込みで次のことが分かった。
 先ずY高の女子生徒の自宅から1・2キロ離れた県道で、当日の朝八時過ぎ、女子生徒が自転車に乗って学校へ向かっている途中、停車していた一台の灰色の乗用車に呼び止められて、何か話をしたあと乗用車に乗せられて走っていったとの目撃者からの情報が入った。通学時間中だったので人通りも多かった。自転車はそのまま歩道に置かれたままだった。連れ去られた場所は、大手通りのバス停近くだった。通報者はバスを待っていた会社員だった。
 同日、近くのクリーニング店から次のような情報が寄せられた。
「あの朝、開店の準備をしていたとき、灰色の車が道路わきに長い時間止まっていました。誰かを待っているようでした」
「運転手ひとりでしたか」
「そうです。人相などは覚えていません」
 店員はそう答えた。
 ほかに目撃者がいないかその周辺の家でも聞き込みをした。するとある家で情報を得た。
「あの朝、私は犬を連れて散歩に出ていました。八時過ぎでしたが、道路わきに灰色の乗用車が止まっていて、向こうから自転車で走ってきた高校の女子生徒を呼び止めて声をかけていました。
「運転手だけでしたか」
「そうです。紺色の帽子をかぶった中年の男でした」
「女子生徒はその車に乗ったのですか」
「ええ、乗りました。急いでいたようです」
 刑事たちはその話を聞いて、当日の朝、女子生徒を車に乗せた紺色の帽子をかぶった中年の男を調べることにした。
 数日後、新たな情報が警察に寄せられた。事件当日の午前9時頃、Y町とこのF町を通っている国道4号で工事作業をしていた作業員が、Y町から猛スピードで走ってくる灰色の車を見かけたのである。丁度カーブの所で工事をしていたので、その車は急ブレーキを踏んで停止した。もう少しで事故を起こしかねない状態だった。作業員はその車に運転手と高校の女子生徒が乗っているのを覚えていた。
「女子生徒は眠っているようでした」
と答えた。
 その車はすぐにまたスピードを上げてF町の方へ走っていったと話した。
 担当刑事は、その車を運転していたのはY町で女子生徒を誘拐した紺色の帽子を被った男ではなかと推察した。Y警察署ではF町の警察署にも問い合わせてその男の調査をはじめた。
 それから一週間後のことである。高島教諭が勤めている県立高校で次のようなことがあった。ある日、高島教諭が職員室で昼食を食べ終わって休んでいたとき、この前の野球部の中田という男子生徒がやってきた。
「先生、お話があります」
 廊下に出て話を聞いてみると、昨日、男子生徒がいつものように農道の山道を走っていたとき、洋館の近くの雑木林の中で野良犬が数匹集まって動物か何かの臓器のようなものを食べていた。土が掘り起こされており、周りには血の付いた破れたビニール袋の切れ端が散らばっていた。野良犬がいなくなってからその場所へ行ってみると、臓器はほかの動物にも食べられたようでほとんど残っていなかった。男子生徒はすぐにそこを通り過ぎたが、あの光景はしばらく頭の中に残ったと言った。
高島教諭は異様な話で驚いたが、まさかそれが新聞で報じられているY校の女子生徒のものではないかとふと疑ったが、何の根拠もないので深くは考えなかった。
 二週間後、同様の高校の女子生徒の誘拐事件がこのF町から北へ20キロ先にあるB町の私立高校で起きた。事件現場は駅だった。同じ色の乗用車が目撃されている。通学時間の八時頃、電車を待っていた女子生徒が、小柄な中年の男に声を掛けられて、駅に止めてあった車に乗って町から出て行ったというのだ。小さな駅だが、何人かの目撃者がいた。
 警察は、同一人物による犯行とみて捜査を開始した。
「どちらの事件も小柄な男と、灰色の車ですね」
「目的は何だろう。ただの誘拐ではなさそうだ」
 担当の刑事たちは、誘拐された二人の女子生徒の家庭の事情を調べてみた。すると共通点がいくつかあった。どちらの家も両親のひとりが重い病気を抱えて長期入院していたことである。
 二人の女子生徒は、事件のあった日に、小柄な男から何らかの情報を聞いて、急いでM市立病院へ向かったと思われる。しかし、二人の家庭の事情をどうしてその小柄な男が知っていたのだろうか。それに見も知らない男の情報を信じてどうして車に乗ったのであろうか。その真相を突き止めなければいけないのだ。
 刑事たちが捜査に全力を挙げていたある日のことである。次のような情報が入った。
 その情報は、このF町の山間にある村の林道の傍に、午後10時頃、灰色の車が止まっているのを残業を終えて自宅へ帰ってきた会社員が見かけたのである。車には誰も乗っていなかった。会社員は新聞の記事で灰色の車のことを知っていたのでまさかと思ったそうだ。もしその車が犯人のものなら、その林の中で何をしていたのか。警察は通報を聞いて、その現場へ行き捜査をはじめた。すると、林の中のある場所に人間の臓器らしいものが埋められているのを発見した。
 血液型はB町の駅で行方不明になっている私立高校の女子生徒と同じO型だった。臓器のほかに両腕の筋肉、両足の筋肉の一部がビニール袋に入れて捨ててあった。血液を分析した結果、DNA型が被害者のものと一致した。
 警察はその夜、現場に止めてあった灰色の車を運転していた人物が、それを埋めたと推察した。
「この事件はまったく猟奇的だ。犯人はなんのために臓器や筋肉だけを埋めたのだろう」
 警察は引き続き、灰色の車の行方を追うことにした。
 このニュースは新聞でも報道されたので高島教諭も読みながら、数日前の男子生徒の話を思い出した。
「まさか、あの洋館の傍の林の中に、Y高校の女子生徒の死体が埋められているかもしれない」
 高島教諭はそう疑ったので学校が休みときに、自分でも一度その雑木林へ行って確かめてみることにした。
 そんな矢先のことである。次の事件が起きたのである。十日後、このF町から東へ6キロ離れた山間のK村で郵便局の20代の女子職員が帰宅途中に行方不明となり、警察に捜索願いが出されたのだ。警察では同一犯人の仕業とみてすぐに捜査を開始した。
 警察の調べによると、郵便局の女子職員は自宅へ向かう途中に何者かが運転手する車で連れ去られた可能性が高い。
 家庭の事情を調べると、女性職員の父親が重い病気でM市立病院に長期入院しており、当日、容態が急変した電話を受けてその人物の車に乗ったと思われる。それ以外のことはその時点では何も分かっていない。
 数日後、高島教諭は、仕事が休みの日に自転車に乗って彫刻家が住んでいる山の洋館へ行ってみた。農道の山道を登って行くと、やがて下り坂になり、男子生徒が目撃した雑木林の場所へやって来た。さっそく雑木林の中を調べてみた。落ち葉が踏み荒らされて野良犬の足跡が残っていた。ある場所が掘り起こされて、血の付いたビニール袋の切れ端が散らばっていた。
「ここへ女子生徒の臓器を埋めたのかもしれない」
 そう思いながらここから見える洋館の方を眺めて見た。見た瞬間に目を疑った。洋館の庭に車が止まっているのだ。シートが掛けられているのでどんな車なのかわからない。もし灰色の車だったらどうだろう。高島教諭は洋館を調べてみることにした。自転車を押して洋館の方へ歩いて行った。
 洋館の周囲は相変わらず静かだった。門は開いており、車があるので彫刻家がいるのではないかと思った。車の傍へ行ってシートを上げようとしたとき、玄関の扉の鍵を開ける音がした。高島教諭は車から離れると近くの茂みの中へ姿を隠した。
 洋館から出てきたのは背の低い小柄な中年の男だった。高島教諭は驚いた。
「あの男はー」
 小柄な男は、海鮮市場で出会った外国人だった。男は周りを見渡しながら、車の方へやってくると、車に掛けてあるシートを少し外した。しかし向こう向きなので車体の色は分からない。男はトランクを開けると、中を覗き込んだ。トランクの中には束になった針金がたくさん入っていた。男はその針金の束を両脇に抱えるとトランクを閉め、また車にシートを掛けて洋館の中へ入って行った。
「針金なんて何に使うのだろう」
 高島教諭は不思議に思ったが、男がまた洋館から出てくると大変なのでその日は引き上げることにした。しかし洋館には彫刻家しか住んでいないのにあの小柄な男はいったい誰だろう。高島教諭は考えながらその場から立ち去った。(つづく)




2024年3月6日水曜日

(連載推理小説)猟奇館事件

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 ある日、高島教諭はいつものように美術室で授業をしていた。授業では生徒たちに彫刻デッサンを教えていた。
「絵を描くには物の形、質感、明暗など基本的なことがわかっていないといい絵が描けない。今日は彫刻を見ながら、物の形、質感、明暗について学んでほしい」
 美術室の中央にギリシャ彫刻の胸像を机に載せて、その周りを生徒たちが自由に椅子を動かして絵を描いている。みんな苦心しながら描いているが、木炭の使い方に慣れていないので、なかなかうまく描けないでいる。ある生徒などはやり直しをしすぎて、絵が真っ黒になっている者もいる。高島教諭は、生徒たちのデッサンを見ながら、ひとりひとりに指導をしていく。
 ある日曜日の午後、高島教諭は自転車に乗って県立高校近くの国道4号を走っていた。 
 先日、野球部の生徒から聞いた山の洋館を見に出かけたのである。国道4号の途中に山を越えて隣村へ行く農道があった。農道の周りには畑があり、農家が点在している。農道の登り坂はそれほど急ではない。しかし途中から急になり、自転車を降りて歩いて行った。十五分ほど登っていくとやがて下り坂になった。遠方に村の集落が見えた。集落の農道をさらに進めばとなりのY町へ向かう。
 自転車で坂道を降りていくと、途中の林の中に柵が見えた。近くに来ると、柵の向こう側に古びた3階建ての洋館がぽつんと建っていた。洋館の周りは木や草がぼうぼうに伸びていた。
「あの洋館だな」
 高島教諭は、洋館まで通じている小道を行き門の前で自転車を止めた。鉄製の門の隙間から洋館を眺めた。洋館の壁板は所々剥がれて、窓は雨戸を閉め切っているので中の様子はまったく分からなかった。庭のあちこちに砕いた彫刻の破片がたくさん落ちていた。
「淋しい所だな。庭もずいぶん荒れている」
 しばらく見ていたが、誰もいないようなので引き返すことにした。でも、せっかくここまでやって来たので、集落も見ておこうと農道を走って行った。学籍簿にはこの集落に自宅がある生徒が数人いる。農道を走っていたとき、農作業をしていた中年の女性に声を掛けられた。 
「県立高校の高島先生ですね」
 その中年の女性は小林という男子生徒の母親だった。
「お散歩ですか。いつも息子がお世話になっています」
「ええ、退屈しのぎにここまでやってきました。ここは静かなところですね」
「この辺は田舎ですから車もほとんど通りません」
 高島教諭は、ふと思いついて、その母親に尋ねてみた。
「さっき下り坂を降りて来る時、古びた洋館を見たのですが、誰か住んでいるのですか」
 それを聞いて母親は、
「ええ、あの洋館は二十年前に建ちました。外国から帰って来られた当時四十代の彫刻家がいまも住んでおられます、でも最近は見かけません」
「県外の人ですか」
「詳しいことは知りません。両親なら知っていると思います」
 高島教諭は、その母親の両親に会って話を聞きたいと思った。
 広い畑には作物がたくさん植えられていた。
「ずいぶんいろんな物をお作りですね。キャベツ、カボチャ、山芋、玉ねぎ、ピーマン、ほうれん草、ジャガイモ、ネギ、トマト、アスパラガス、きゅうり…」
「ええ、どの農家でもたくさん作っています。最近はイノシシなどの野生動物の被害も少ないですから。以前はイノシシによく荒らされて困っていましたが、どうした訳か最近はほとんど見かけません」
 母親は笑って話したが、高島教諭はこの地区のことはよく知らないので「そうですか」とだけ答えた。
高島教諭は、母親から参考になることを聞いたのでその日は帰ることにした。
村をUターンして再び山を越えて海岸沿いを走る国道4号まで戻り町へ向かった。ここからF町までは北へ5キロの距離である。町へ着くとホームセンターの傍に「樹氷」という喫茶店を見つけたので入ることにした。
店に入ると、昔の外国映画のポスター写真がたくさん壁に飾ってあった。どれもサスペンス映画ばかりだった。しばらくして注文を取りに店主がやって来た。店は店主が一人で経営していた。お腹が減っていたのでミックスサンドとアイスコーヒーを注文した。
窓際の方を見ると、本棚が置いてあり、サスペンス小説や推理小説の単行本や文庫本がたくさん入っていた。
しばらくして店主が、ミックスサンドとアイスコーヒーを持って来た。高島教諭は壁の方を見ながら、
「どれも懐かしい映画ですね。ずいぶん集めましたね」
「ええ、若い頃からサスペンス映画や推理小説が好きで、すっかりポスター集めのコレクターになりましたよ」
 高島教諭は店主にそんな趣味があるのなら、この町で有名なあの洋館の事も知っているのではないかと思い尋ねてみた。すると店主は、
「小さな町のことですからよく知っています。みんなあの洋館を「猟奇館」って呼んでいます。この店を開店した同じ年に建ったと思います。そういえば、開店当時はときどき彫刻家が店にやって来ました」
「どんな方だったんですか」
 店主は話した。
「明るい性格の人でした。多弁で自分のことをよく話しました。なんでもフランスに長く暮らしていたそうで、ロダンとかカミーユ・クローデルとかいう彫刻家の作品に影響されて、パリの美術学校で学んでいたそうです。自分の作品には自信を持っているようで、よく制作のことも話しました。その頃は、お金を払ってモデルを捜していましたが、どうしたわけか貧乏になってお金が払えず、気に入った女性を見かけると強引な態度で声をかけていました。それからはまったく見かけません」
「フランスで生活しておられたんですか」
 高島教諭は、興味深く聞いていた。
「私はこの町の県立高校で美術を教えているんですが、風景画や静物画が専門ですから、モデルをやとうことはありません。でも彫刻は人物が主ですからモデルを探すのも大変です。友人にも彫刻家がいるのでモデルさんのことをよく聞きます」
 店主は聞きながら頷いた。
「あの洋館へはもう行かれたのですか」
「ええ、さっき行ってきました。誰もいないようでした。また行くつもりです」
 店主とそんな話をしながら食事を食べ終えると、高島教諭は店を出た。自転車を漕ぎながら、店主が話したことをいろいろ思いだした。
「不思議な彫刻家だ。是非会って話をしたいな」
 高島教諭はこの店が気に入って、ときどき散歩の途中に来店した。
町のF駅までやってくると、吉崎通りの中へ入って行った。郵便局本局のそばに書店があったので中へ入った。
 書店に入ると中学校の生徒が数人立ち読みをしていた。ビアズリーのサロメのペン画集を見つけたのでそれを買って高島教諭は店を出た。アパートへ帰ってもすることがないのでそのまま港へ行った。ふ頭へ行くと、フィリピン国籍の貨物船が数隻、積み荷を降ろしていた。夜になるとこのふ頭では夜釣りをする人がたくさんいる。
帰りに海鮮市場へ寄って今夜のおかづを買うことにした。新鮮な魚が売られていたが、ほ
とんど売り切れていた。何かおかづになるものがないか探していると、
「お客さん、このアワビと牡蠣はどうですか。新鮮ですよ。もうこれしかありません」
と声をかけられた。
 買おうかどうしようかと迷っていると、後ろから男が割り込んできた。
「俺に売ってくれ」
 振り返ってみると、紺色のソフト帽をかぶった色白の背の低い男だった。すぐに外国人だと分かった。
「ありがとうございます。両方で千円です」
 その男は金を払うと、袋にアワビと牡蠣を入れてもらってすぐにそこから立ち去った。
「ああ、おしいことをしたな。何か代わりに買わないと」
 となりの商品棚にアジの干物が数匹残っていたのでそれを買ってアパートへ帰った。帰り道、自転車を漕ぎながらさっきの紺色のソフト帽を被った背の低い男の姿が妙に頭に残った。(つづく)







 

2024年2月17日土曜日

(連載推理小説)猟奇館事件

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 日本海に面したS県北部のM市の山の中に地元の人たちから「猟奇館」と呼ばれている木造建築の三階建ての古びた洋館が建っている。六十代後半の白髪頭の痩せた彫刻家が住んでいるが、最近はどこへ行ったのか姿を見せない。
 洋館の庭は草が伸び放題で、柵は錆びつき、庭のあちこちに野生動物や野鳥、人体の彫刻が無造作に置かれており、どれも汚れてひびが入っていた。夜は特別不気味で、雨戸は閉め切っており、玄関の照明も点けたことがない。昔、村の人が回覧板を持って行ったが、何か月も回って来ないので持って行くのを止めてしまった。郵便物もほとんど届いたことがない。
 この洋館の傍には農道が通っている。農道を通って山を越えると海が見え、海岸沿いを走る国道4号に出る。この国道をまっすぐ南へ行くと15キロ先にY町がある。県外の車はこの農道を知らないので、地元の人がたまに近道として使うくらいだった。国道4号を北へ5キロ行くとF町があり、2キロ先には県立高校がある。
 七月上旬のある日、その県立高校の野球部の男子生徒がひとりで国道の歩道を走ってきた。週に何度かやって来るのだ。国道からこの農道へ入り、坂道を登って山を越え、洋館の傍を通って隣村までランニングするのだ。村までやって来るとUターンして戻って行く。だからこの洋館を見るのは村人とこの男子生徒くらいだった。
 あるとき洋館の傍を通ったとき、珍しく彫刻家の姿を見かけた。青白い顔をした痩せた男で庭で何かしていた。男子生徒は走る速度を落として注意深く見つめた。彫刻家は洋館の外壁に彫刻をいくつも並べて金槌でばらばらに砕いていた。せっかく制作した作品なのに気に入らないらしい。
 男子生徒は不思議な光景に驚いたが、そのまま通り過ぎた。家に帰ってから両親に話したが、彫刻などに興味のない両親は「そうかい」といって黙って聞いているだけだった。
 この生徒が通っている県立高校では春に教師が数人入れ替わった。高島克之は美術の教師としてN県の県立高校からやってきた。独身で34歳である。学生の頃から絵が好きで全国の美術展に多数の作品を出品していた。
 美術室には西洋の古典絵画や日本の近代絵画の複製画を入れた額が壁に飾られていた。窓際の棚の上には二体のギリシャ彫刻の胸像も置かれていた。
 ある日の放課後、授業が終わっていつものように職員室で仕事をしていると、校庭で野球部の生徒が練習していた。
 子供の頃からプロ野球を見るのが好きだったので校庭へ出てしばらく練習を見ていた。
 金網の後ろで見ていると、2年生の中田という選手が近寄って来た。
「もうすぐ夏の大会があるのでみんな練習に励んでいます」
「この学校は強豪だと聞いているよ。今年もぜひ優勝してくれ。応援してるよ」
 高島教諭は笑って言った。
 しばらくしてその生徒がこんな質問をした。
「先生、ちょっと聞きたいことがあるんですが」
 中田は真面目な顔になった。
「何が聞きたいんだね」
「彫刻のことなんですが」
「何だね」
 中田は続けた。
「実はこの高校から2キロほど南へ行ったところに山を越えて行く農道があるんですが、その農道の傍の山の中に古い洋館が建っています。先日、農道をランニングしていた時、洋館に住んでいる彫刻家が、庭の彫刻を金槌でいくつも砕いているのを見かけました」
「砕いていた?」
「ええ、そうなんです。もったいないと思いました。せっかく作った彫刻なのに」
 高島教諭は中田の話を聞いて答えた。
「自作に厳しい彫刻家の中には、気に入らないと作品を破棄してしまう人はいるが、何点も砕くなんて珍しい人だな。相当に完璧主義の芸術家だな」
「そうでしょうね。変な人です。あの洋館だって気味が悪いとみんな言ってますから。わかりました」
 その時、グランドから声が聞こえた。
「中田、守りだ。守備につけ」
 中田という生徒は急いで自分の守備位置へ走って行った。
 高島教諭はいま聞いた彫刻家のことをしばらく考えていたが、練習がはじまるとそれに気を取られて忘れてしまった。
 今日の仕事も終わって高島教諭は学校を出た。帰りに海鮮市場へ今晩のおかづを買いに行った。
 海鮮市場へ行くと、アジ、トビウオ、スズキ、タイ、カレイなどが売られていた。アサリ、ハマグリ、サザエ、牡蠣、イカなども新鮮なものばかりだ。
 何を買おうかと迷っていると、
「お客さん、いまはアジとカレイがおいしいですよ。地元産です。でも魚はやっぱり冬ですよ。ブリや蟹が出回ります。ブリなんかずいぶん脂が乗っています」
 店員に教えてもらった。
 高島教諭は町の民間のアパートを借りて住んでいる。部屋は一階である。転勤族なので引っ越しの際は一階が都合がよい。車は所有していない。いつも愛用の自転車で通勤している。
 アパートへ帰ってくると、さっそく夕食の準備をはじめた。
 独身者の部屋はたいてい乱雑だが、高島教諭は几帳面な性格なので普段からきれいに整頓されている。本棚には授業のときに使う教科書や美術関係の専門書が入っている。部屋の壁には自作の水彩画、油絵が飾ってある。
 海鮮市場で買ってきたアジとカレイをおかづに夕食を食べてから風呂に入った。テレビでプロ野球を見たあと、明日の授業の準備をしていたとき、ふと、今日聞いた野球部の生徒の話を思い出した。
「庭で彫刻家が金槌で彫刻をいくつも砕いていました」
 そのときはたいして気にならなかったが、何日かすると、そのことばかりが気になりだした。
「農道のそばにある洋館か。どんな家か一度見てみたいな」
 そう思いながら高島教諭は部屋の照明を消して眠りについた。(つづく)



2024年1月22日月曜日

病気になった王さま

  王さまは重い病気になりました。
おなかが痛いとか、足が痛いとか、歯が痛いとかではなく心の病気でした。若い頃は外に出たり、いろんな人にあって健康そのものでしたが、年を重ねるにつれて外へ出ることもなく、お城に閉じこもってばかりで、頭の中で夢ばかり追っていました。
 あるときそんな王さまに悪霊がとりつきました。悪霊は退屈している人や暇そうに夢ばかり追ってる人が大好きです。
 悪霊は王さまに語り掛けました。
「隣国が、この国を狙っています。早急に兵隊を増員して守らなければいけません」
 王さまはそれは大変だとばかりに、国中から人を呼び集め、国境の周りを固めました。でも国民は納得できませんでした。この国と隣国は昔から大変仲が良く、この国を狙うはずがないからです。でも王さまの命令ですからどうすることもできません。
 あるとき悪霊が王さまにいいました。
「先手必勝です。兵隊をすぐ隣国へ派遣しなさい。そうしないと先にやられます」
 王さまはそれは大変だとばかりに国境の司令官に隣国へ兵隊を出すように命じました。
 司令官の命令で、兵隊たちは隣国へ攻め込みました。ところが隣国の住民たちは、そんなことなど知らず、仲の良い隣国の兵隊たちが久しぶりにあいさつにきたと思って、家に招いて、お茶を出したり、お菓子を出したりしました。 
 けれどもどうも様子が変なので、「これは隣国が国境を越えて攻めてきたのだ」と思って、武器を取って応戦しました。
 どの町でもそんな様子でしたから、この国の王さまにも通達されました。王さまも理由がわからず、本格的に兵隊を出して戦うか迷っていました。
  これらのニューズは戦争を仕掛けた国の国民にも知らされました。
  ある日、そのニュースを聞いたある教会の司祭が、
「王さまは悪霊にとりつかれている」と判断しました。
 この司祭は、医学の知識もあり、これまで悪霊にとりつかれた人をたくさん治療したことがあったからです。
「私が王さまの病気を治してあげよう」
  さっそく王さまのいるお城へ行って、王さまに面会することにしました。召使に連れられて、王さまの部屋へ行くと、王さまは青い顔をしてうわごとをいったりしてベッドで休んでいました。
  司祭はすぐにそばに行って、悪霊を追い払うために、何度もお祈りをはじめました。
 しばらくすると王さまの様子が変わってきました。顔色がよくなり、うわごともなくなりました。最後の祈りが終わるころには、悪霊がすっかり部屋から出ていきました。
「私は何をしていたのだ。誰か教えてくれ」
  召使たちは、王さまの命令でこの国の兵隊が隣国へ攻めていったことをはなしました。王さまは驚いて、すぐに隣国へ攻め込んだ兵隊を退却させました。
  それからは前のように両国は仲良くなりました。