2023年6月26日月曜日

(連載推理小説)画廊贋作事件

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 辻昭彦は名古屋市に住んでいた。国土交通省中部地方整備局河川事務所の職員だった。年齢は36歳、独身である。
 住居は千種区にある公務員宿舎で、いつも3階の部屋で生活していた。業務は名古屋市の河川に設置されている水位計の管理と監視、また河川の保全に関する業務だった。
   仕事が休みの日は、美術館巡りをするのが趣味だった。自分でも絵を描いており、自室に水彩画やパステル画を飾っていた。
 写真にも興味があって地下鉄に乗って、知多半島へ出かけて海の風景写真なども撮っていた。そんな暮らしぶりの彼だったので、生活はごく平凡だった。友達も少なくていつも出歩くのは一人だった。
 ある日、地下鉄に乗って名古屋駅に行き、近くの美術館へ見学に出かけた。彼の好みは、古典の西洋絵画や日本の近代絵画だった。
 10年前、河川事務所の研修で東京へ行ったとき、京橋にあるブリヂストン美術館(注 2019年7月1日よりアーティゾン美術館に改称)で、青木繁、藤島武二、佐伯祐三、中村 彝、藤田 嗣治、関根 正二などの作品を見た。また上野公園内にある国立西洋美術館では、ギュスターヴ・クールベ、ポール・セザンヌ、モーリス・ドニ、ポール・ゴーギャン、クロード・モネ、カミーユ・コロー、オーギュスト・ルノワールなどの作品も鑑賞した。
 いつもそうだが、美術館にいるときは普段の生活から解放されて絵の世界に没頭出来る。でも美術館から外へ出るとそんな気分は消えてしまうのだ。歩道を歩くたくさんの人込み、車の音、店から聴こえてくる騒々しいBGMの音。辻昭彦は味気ない普段の生活に戻ってしまう。
 美術館へ行った帰りは必ず書店へ立ち寄った。最近は、クレー、カディンスキー、モンドリアンなどの抽象絵画に興味を持っていたので、画集や評論などを1時間くらい立ち読みすることもあった。
 ある日千種区の裏通りを歩いていたとき、ビルの間に隠れるように建っている小さな画廊を見つけた。隣は骨董屋で店の前には昔の箪笥、テーブル、椅子、本棚、照明器具などが無造作に山積みされており、普段は画廊があることに気づかずに通り過ぎていた。
 わずか15坪ほどのワンルームの店舗の壁には30点ばかりの絵が展示されていた。
店内はひっそりとしていて、どれも6号から8号くらいの絵で、ありきたりの絵ばかりだった。2,3点買ってもいいなと思える絵があったが、その中に1枚気になる絵を見つけた。
「この海の風景はどこかで見たことがある」
 じっと絵を観ているうちに思い出した。
「そうだ、神崎の海岸だ」
 辻昭彦の故郷は京都府舞鶴市だった。神崎海岸は子供の頃、海水浴に行ったのでよく覚えている。
 懐かしい気持ちでしばらく観ていると、店主がそばにやってきて、
「あまり知られていない画家の作品ですが、なかなかいい絵でしょう」
 店主は画家のことを少し話してくれた。店主の話によると、その画家は現在も神崎に住んでいて創作活動をしているそうだ。年齢は44歳で、海の風景をテーマに描き続けているとのことだった。
「この画家の名前と住所はわかりますか、教えてくれたらこの絵を買いましょう。値段は」
 店主は喜んだ顔で、
「名前は山川修さんです。神崎海岸の後ろの民家に住んでおられます。値段は4万円です」
 辻昭彦はその絵を買った。紙にボールペンで画家の名前と住所を書いてもらった。
 公務員宿舎に帰って来るとさっそくその絵を部屋に飾った。
 あまり知られていない画家といったが、絵の技術は優れていた。写実の腕前は抜群だった。絵の右下には(Yamakawa)とサインが書き込まれていた。この画家が描いたほかの絵も売られているかも知れない。辻昭彦はその画家の絵を揃えてみたくなった。同時に自分の創作欲も湧いてきた。
 ある日の日曜日、スケッチブックを持って近くの千種公園へ行き、ベンチに座って鉛筆スケッチをした。辻昭彦は、よくこの公園で絵を描くのだ。松林を散歩している人やベンチに座って本を読んでいる人をすばやく写生する。
 以前、この公園のベンチに座ってヴァイオリンを練習していた爺さんがいて、その姿も描いたことがある。ずいぶん下手糞な演奏だったが、いつも楽しそうに弾いていた。最近は見かけない。
 スケッチをしていると鳩がたくさんそばへ集まってくる。その光景も何枚も描いた。
 絵は鉛筆と色鉛筆で描いて、アパートへ帰ってから水彩絵の具を使って完成させるのだ。
 雨の日は部屋の中で静物画を描く。リンゴやみかん、梨、ブドウなどを買ってきて皿の上に並べて、パステルと水彩絵の具を使って描くのだ。また愛用のマンドリンやギター、リコーダーなども静物画として描いたりする。
 そうやってずいぶんたくさんの絵を描いた。でも海の絵はまだ一枚も描いていない。だからこの前買った神崎の絵のような海の絵が描きたくなった。
 ある日の日曜日、地下鉄に乗って栄町へ行った。歩道を歩きながら画廊を見て回った。神崎以外の場所を描いた、あの画家の海の絵はないか画廊を訪ね歩いた。でもどこの画廊に入っても目的の絵はなかった。店主に画家の名前を言って調べてもらったが、いまのところ仕入れていないとのことだった。
「やっぱり市場に出ているのは神崎の絵だけか」
 夕方まであちこち画廊を捜し回ったが成果はなかった。地下鉄に乗って千種区へ帰ってくると近くのミニスーパーで刺身を買って宿舎へ戻ってきた。夕飯のとき刺身を食べたが、鮮度が落ちていて少しも旨くなかった。
「やっぱり舞鶴の新鮮な魚が食べたいな。来週、帰省しよう」
 夜ネットで絵画販売のホームページで画家の作品を調べてみたが、やはり無かった。
 数日後、2日間の休暇を取った。舞鶴へ帰省することにしたのだ。帰るのは半年ぶりだった。名古屋から中央自動車道で米原に行き、そこから北陸自動車道に乗り変えて、敦賀から国道27号線で舞鶴へ帰った。家には母親がひとりで暮らしていた。
                                  (つづく)