2024年2月17日土曜日

(連載推理小説)猟奇館事件

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 日本海に面したS県北部のM市の山の中に地元の人たちから「猟奇館」と呼ばれている木造建築の三階建ての古びた洋館が建っている。六十代後半の白髪頭の痩せた彫刻家が住んでいるが、最近はどこへ行ったのか姿を見せない。
 洋館の庭は草が伸び放題で、柵は錆びつき、庭のあちこちに野生動物や野鳥、人体の彫刻が無造作に置かれており、どれも汚れてひびが入っていた。夜は特別不気味で、雨戸は閉め切っており、玄関の照明も点けたことがない。昔、村の人が回覧板を持って行ったが、何か月も回って来ないので持って行くのを止めてしまった。郵便物もほとんど届いたことがない。
 この洋館の傍には農道が通っている。農道を通って山を越えると海が見え、海岸沿いを走る国道4号に出る。この国道をまっすぐ南へ行くと15キロ先にY町がある。県外の車はこの農道を知らないので、地元の人がたまに近道として使うくらいだった。国道4号を北へ5キロ行くとF町があり、2キロ先には県立高校がある。
 七月上旬のある日、その県立高校の野球部の男子生徒がひとりで国道の歩道を走ってきた。週に何度かやって来るのだ。国道からこの農道へ入り、坂道を登って山を越え、洋館の傍を通って隣村までランニングするのだ。村までやって来るとUターンして戻って行く。だからこの洋館を見るのは村人とこの男子生徒くらいだった。
 あるとき洋館の傍を通ったとき、珍しく彫刻家の姿を見かけた。青白い顔をした痩せた男で庭で何かしていた。男子生徒は走る速度を落として注意深く見つめた。彫刻家は洋館の外壁に彫刻をいくつも並べて金槌でばらばらに砕いていた。せっかく制作した作品なのに気に入らないらしい。
 男子生徒は不思議な光景に驚いたが、そのまま通り過ぎた。家に帰ってから両親に話したが、彫刻などに興味のない両親は「そうかい」といって黙って聞いているだけだった。
 この生徒が通っている県立高校では春に教師が数人入れ替わった。高島克之は美術の教師としてN県の県立高校からやってきた。独身で34歳である。学生の頃から絵が好きで全国の美術展に多数の作品を出品していた。
 美術室には西洋の古典絵画や日本の近代絵画の複製画を入れた額が壁に飾られていた。窓際の棚の上には二体のギリシャ彫刻の胸像も置かれていた。
 ある日の放課後、授業が終わっていつものように職員室で仕事をしていると、校庭で野球部の生徒が練習していた。
 子供の頃からプロ野球を見るのが好きだったので校庭へ出てしばらく練習を見ていた。
 金網の後ろで見ていると、2年生の中田という選手が近寄って来た。
「もうすぐ夏の大会があるのでみんな練習に励んでいます」
「この学校は強豪だと聞いているよ。今年もぜひ優勝してくれ。応援してるよ」
 高島教諭は笑って言った。
 しばらくしてその生徒がこんな質問をした。
「先生、ちょっと聞きたいことがあるんですが」
 中田は真面目な顔になった。
「何が聞きたいんだね」
「彫刻のことなんですが」
「何だね」
 中田は続けた。
「実はこの高校から2キロほど南へ行ったところに山を越えて行く農道があるんですが、その農道の傍の山の中に古い洋館が建っています。先日、農道をランニングしていた時、洋館に住んでいる彫刻家が、庭の彫刻を金槌でいくつも砕いているのを見かけました」
「砕いていた?」
「ええ、そうなんです。もったいないと思いました。せっかく作った彫刻なのに」
 高島教諭は中田の話を聞いて答えた。
「自作に厳しい彫刻家の中には、気に入らないと作品を破棄してしまう人はいるが、何点も砕くなんて珍しい人だな。相当に完璧主義の芸術家だな」
「そうでしょうね。変な人です。あの洋館だって気味が悪いとみんな言ってますから。わかりました」
 その時、グランドから声が聞こえた。
「中田、守りだ。守備につけ」
 中田という生徒は急いで自分の守備位置へ走って行った。
 高島教諭はいま聞いた彫刻家のことをしばらく考えていたが、練習がはじまるとそれに気を取られて忘れてしまった。
 今日の仕事も終わって高島教諭は学校を出た。帰りに海鮮市場へ今晩のおかづを買いに行った。
 海鮮市場へ行くと、アジ、トビウオ、スズキ、タイ、カレイなどが売られていた。アサリ、ハマグリ、サザエ、牡蠣、イカなども新鮮なものばかりだ。
 何を買おうかと迷っていると、
「お客さん、いまはアジとカレイがおいしいですよ。地元産です。でも魚はやっぱり冬ですよ。ブリや蟹が出回ります。ブリなんかずいぶん脂が乗っています」
 店員に教えてもらった。
 高島教諭は町の民間のアパートを借りて住んでいる。部屋は一階である。転勤族なので引っ越しの際は一階が都合がよい。車は所有していない。いつも愛用の自転車で通勤している。
 アパートへ帰ってくると、さっそく夕食の準備をはじめた。
 独身者の部屋はたいてい乱雑だが、高島教諭は几帳面な性格なので普段からきれいに整頓されている。本棚には授業のときに使う教科書や美術関係の専門書が入っている。部屋の壁には自作の水彩画、油絵が飾ってある。
 海鮮市場で買ってきたアジとカレイをおかづに夕食を食べてから風呂に入った。テレビでプロ野球を見たあと、明日の授業の準備をしていたとき、ふと、今日聞いた野球部の生徒の話を思い出した。
「庭で彫刻家が金槌で彫刻をいくつも砕いていました」
 そのときはたいして気にならなかったが、何日かすると、そのことばかりが気になりだした。
「農道のそばにある洋館か。どんな家か一度見てみたいな」
 そう思いながら高島教諭は部屋の照明を消して眠りについた。(つづく)