2016年2月27日土曜日

夢見る電車

 その電車は、最近工場の中で生まれたばかりでした。ペンキのにおいがぷんぷんして、今日から大きな町から海の見えるさびしい岬まで走っていくのです。何もかもが初めて見る風景なので、電車はとても喜んでいました。
 この電車には、今日からいつものたくさんの乗客が乗りました。みんな途中にある工場や学校、病院、郵便局、漁協などで働く人たちでした。
 朝が早いので、みんな電車に乗るとこっくりこっくりとすぐに居眠りをしてしまいます。だから、誰も外の景色を見る人はいません。だけど電車だけは、いままで見たことがない風景にとても感激しながら、レールの上を元気よく走っていきました。
 いままで、狭苦しい工場の中で、身動きもできなかったので、はじめて見る海の風景にも満足しながら走りました。
 ある朝、新任の小学校の先生がこの電車に乗りました。今日がはじめての仕事なのです。最初は変わっていく外の風景をめずらしそうに眺めていましたが、みんなが居眠りをしているので、だんだんと自分も眠くなってきました。知らないうちに目を閉じてしまいました。
 電車は、山の中を走っていきました。いつものトンネルを抜けました。
トンネルを抜けると、やがてある村が見えてきました。電車はその村が美しい村なのでいつも汽笛を鳴らして喜びました。眠っている乗客はいつものことなので目も覚ましません。だけど新任の先生だけは、その音で目を覚ましました。
 ねむけ眼で窓の外の景色を見て驚きました。見果たす限りの菜の花畑が丘の向こうまで続いているのです。
「わあ、こんなすてきな村があるんだなあ。いつかこの村に降りてみよう」
先生は、遠くの方までつづく菜の花畑をいつまでも見ていました。
 やがて、電車はまたトンネルを抜けました。
トンネルを抜けると、そこは桜の花が満開になっていました。右を見ても左を見ても、まわり中、どこまでも桜の世界がつづいています。こんなすばらしい景色は都会では見ることができません。先生はいつまでもうっとりと眺めていました。
「この村にも降りてみよう」
 そういっていると、向こうの小高い山の間から、青々とした海が見えてきました。
その海の見える小さな村に先生の働く小学校があるのです。
小さな小学校には二十人ほどの生徒が新しい先生がやって来るのを待っているのでした。
先生は、棚からかばんを下ろすと降りる準備をしました。すると、ほかの乗客たちもみんな目を覚ましました。
 電車は、やがてその村の終着駅に到着しました。乗客たちはみんな降りて行きました。みんな夕方には、またこの駅へ戻ってきて都会へ帰っていきます。
 電車は、駅のホームでひと休みしながら、再び都会へ向かって走り出します。
「この駅からのお客さんは、三人だけか」
すこしがっかりしましたが、また美しい風景を見ながら走ることができるのです。電車は元気よく、いま来たレールの上を走っていきました。
 季節が変わると、まわりの景色も変わっていきました。
暑い夏になると、青々とした山々に緑の木々がまるで燃えているように見えます。海の向こうには大きな入道雲が浮かんで、浜辺には、たくさんの海水浴客の姿がありました。そして、その人たちは、みんなこの電車に乗ってやってくるのでした。夏の季節が一番、この電車が働く時期だったのです。
 やがて夏も終わり、秋も過ぎると、冷たい北風が吹く冬の季節になりました。この土地では、雪は降りませんが、からからに乾いたからっ風が毎日のように吹きました。電車はそれにもがまんして走りました。
 もうすぐ春になるある日のことでした。
都会の駅へ戻ってくると、白い雪をたくさんかぶった一台の電車に出会いました。
「おれは、雪国からやって来たんだ。ここじゃ、もう春なのに、向こうじゃ、まだ雪が降っているんだから寒くってしょうがない」
 電車はそれを聞いて、自分も一度は雪の降る土地を走ってみたいなと思いました。電車はまだ雪を見たことがなかったからです。
「雪が降ってる景色はどんなだろう」
毎日、雪国からやってくる電車たちに話を聞いてみました。
「ぼくも、雪の中を走ってみたいなあ」
電車はいつも仕事が終わったあと、ホームの中で雪国の夢を見ていました。
何年かしてから、その夢がかなう時がやってきました。電車の入れ替えがあり、雪国で走ることになったのです。
 ある日、電車は新しく塗装されて、雪の降る北の国へと運ばれていきました。もうすぐ冬になる時期でした。仲間の電車たちがみんな見送ってくれました。
いまその電車は、雪の降る土地を、毎日元気よく走っているのでした。
 厳しい寒さの土地ですが、生まれてはじめて見る雪はとても幻想的で、好奇心をかきたてられるのでした。
ある真冬の広大な湖のそばを通ったとき、北方からやってきた白鳥たちが、氷の張った湖に舞い降りてきて、みんな羽を休めていました。
 あるときは、一羽の変わり者の白鳥が、電車の停まっている駅のすぐ近くまでやってきたことがありました。そんなときは、いっしょに話しをしたこともありました。
 ある朝、あたたかそうな帽子をかぶり、分厚いオーバーを着込んだひとりの老人が、大きなキャンバスと絵具箱、イーゼルを担いで、この小さな田舎の駅に降りました。
「どこからやって来た人かな」
その老人は、絵描きで一週間ほどこの村の旅館に滞在して、白鳥たちがいる湖の絵を描きにきたのです。毎朝早くこの湖のほとりにやって来ると、雪の積もった原っぱにイーゼルを立て、キャンバスを載せて絵を描いていました。
電車は、毎日、この湖のそばを通るとき、いつもその絵描きが描いている絵を見ました。
その絵には、たくさんの白鳥たちが、氷の張った湖のまわりに集まってみんな楽しそうに羽をやすめている様子が、色鮮やかな絵の具を使って、美しく丹念に描かれていました。
「明日はどこまで描けてるかなあ」
電車は、毎日絵を眺めるのが楽しみでした。
 ある日、絵描きは、出来上がった絵を携えて、町へ行く電車に乗りました。
どこかの町の美術展に描き上げたこの絵を出品するためでした。
白鳥と湖をモチーフにしたこの美しい色彩の絵は、きっとたくさんの人たちに賞賛されるでしょう。
そんなことを思いながら電車は、またいつものようにこの湖のそばを走っていきました。
 やがて、雪もとけて、あたたかな春がやって来ました。湖の氷もとけて白鳥たちの姿も見えなくなりました。電車は、また冬がやってくるのを楽しみに待つことにしました。
 ある四月のさわやかな日でした。
電車がこの田舎の駅に停まると、折りたたみ式自転車を携えた二人の若者が電車に乗り込みました。
この若者たちは、自転車で日本一周をしているのでした。座席にすわるとポットをとりだして、「ふー」とため息をつきながら、お茶を飲み、ガイドブックをひろげて行き先を確認していました。
「さすがに日本一周はたいへんだね」
「なあに、のんびり走っていけばだいじょうぶさ。あの山の向こうは海だ。こんどは海沿いを走ってひたすら南へ行こう」
「いい季節だから、こんな風景の土地もきっと見られるね」
二人が見ていたガイドブックの写真には、海の見える菜の花畑がどこまでも広がる土地が写っていました。
 電車は、その風景に見覚えがありました。それは、生まれて初めて走ったあの海の見える美しい土地でした。ここではまだ花は咲き始めたばかりですが、いま頃、あの土地の村々では、一面に桜の花が満開になり、菜の花畑が丘の向こうまで広がっているのでしょう。
 朝の早い始発電車の中では、いまも乗客たちがあいかわらず、みんなこっくりこっくりと居眠りをしているのでしょうか。電車はそれを思い出すと、くすっと笑いました。それからまたあの新任の先生のことも思い出しました。いまごろは学校の仕事にもすっかり慣れて、毎日楽しく子供たちに勉強を教えているのでしょうか。
 電車はそんなことを思い出しながら、いつかはまたあの村へ帰ってみたいなあと思いました。そしてしばらくすると電車は元気よく汽笛を鳴らして、次の駅へ向かって走っていきました。



(自費出版童話集「びんぼうなサンタクロース」所収)



2016年2月21日日曜日

気まぐれな鳩時計

 ある家に、正時になっても鳴かない鳩時計がありました。
その鳩時計は、古かったせいもあるのですが、ずいぶん気まぐれだったからです。いつもへんな時間に鳴いたりするのです。
「明日は、正午にバスに乗って友だちに会いにいくからちゃんと教えてくれよ」
 家の主人はいつも庭で仕事をしているので、鳩の声を聞いて時間を知りました。
「わかってますよ。ちゃんと知らせます」
ところが、翌日やっぱり正午になっても鳴かないので、主人はバスに乗り遅れてしまいました。
「やっぱりだ。こんな鳩時計は壊してしまおう」
そういって、オノでたたき壊そうとしたとき、鳩時計がさけびました。
「それはあまりに残酷です。こんどからちゃんと知らせますから、どうかかんべんしてください」
「いつもそうだ。口だけは達者なんだから」
その日はどうにか助かりました。
 ところがある日、主人が腕をかけてシチューを作っていたときです。
「1時間煮込むと、おいしい味になるんだ。時間になったら知らせてくれよ」
鳩時計にいって、庭で仕事をはじめました。
けれども、鳩時計の声を聞いたのはずいぶん遅くなってからでした
あわてて台所へいくと、シチューはみな焦げていました。
「せっかくのシチューがだいなしだ」
おこった主人は、ナタをもってくると、鳩時計を壊そうとしました。
 主人の形相をみて、震え上がった鳩時計は、
「命だけはどうか助けてください。次からはちゃんと知らせますから」
いつものように許してもらいました
 ある日、この家に強盗が押し入りました。
ナイフを突き付けて、眠っていた主人をたたきおこしました。
「金めのものをよこせ」
主人はすっかり気がどうてんしましたが、すぐに平常心にもどると、
「うちはびんぼうで金めのものなんてないよ。でも、あの壁にかかっている鳩時計は、むかしお金持ちが使っていたものを質屋で高い値段で買ったものだ。なんならもっていきなよ」
「そりゃ、好都合だ」
強盗はよろこんで、鳩時計を小脇に抱えて家から出て行きました。
「やれやれ、怖い思いをしたが、あの鳩時計と縁がきれてよかった」
ところが、町で強盗はすぐに捕まって、巡査が鳩時計を届けにきてくれました。
「やれやれだ。せっかくいなくなって喜んでいたのに」
主人はもどってきた鳩時計を見ながらがっくりと肩をおとしました。
それからも毎度のこと、鳩時計はでたらめな時間を告げて、主人をこまらせていましたが、ある日、町で新しく時計屋を開店した友だちが、家に遊びにやってきました。
「そうだったのかい。じゃ、わたしが直してあげよう」
主人のはなしをきいて、友だちはすぐに修理してくれました。
歯車が錆びついていたのと、油が切れていたのが原因でした。
「これでもう大丈夫だ」
それからはこの鳩時計は、いつもきちんと正確な時間を知らせるようになりました。
だけど、本来気まぐれなので、ときどきはへんな時間に鳴くこともありました。






(つるが児童文学会「がるつ第31号」所収)



2016年2月12日金曜日

冬の日の電信柱

 ビュービューと冷たい北風が吹いてきて、電信柱は困ったようすで独り言をいいました。
「ああ、今年の冬も、ずいぶん寒いな。電線たちもビーン、ビーンと寒そうに唸っている」
空は、灰色の雲に覆われて、雪も降ってきました。
「今夜もこれじゃ、明日はまた風邪をひいちまうな」
 そのとき、どこからかチャルメラの音が聞こえてきました。
「ああ、ラーメン屋だ。ありがたい、どうかおれのそばで営業してくれないかな」
 去年の冬も、ラーメン屋がこの場所で屋台を出したのです。営業してくれると都合がいいのです。ラーメンのほんわかしたいい匂いと湯気が、電信柱を暖かく包んでくれるからです。それはまるでサウナにでも入っている気分でした。
 思っていると、ラーメン屋がそばで営業をはじめました。白髪頭のおじいさんで、暖かそうなジャンバーを着て、お湯を沸かしはじめました。その湯気が上の方まで登ってきます。
「ああ、暖かい」
電信柱が気持ちよさそうにしていると、駅の方から人が歩いてきました。
「ラーメンひとつたのむよ」
「へい、お待ちください」
 白髪頭のおじさんは、さっそく作り始めました。
鶏ガラのなんともいえないスープのいい匂いが屋台の周りにも広がります。電信柱もその匂いをかいて大満足です。
 そのあとからも、会社帰りの人や、飲み屋帰りの人がこの屋台に立ち寄りました。
夜も遅くなって、おじさんは屋台を閉めると、家へ帰って行きました。電信柱は、また寒い時間を過ごさなければならないのです。
 電信柱が寒そうにしていると、いつものカラスが電線の上にとまりました。
「おじさん、帰ったのかい」
「ああ、帰ってしまった。明日もまたここで営業してくれたらいいけど」
「また来るさ。いいもの持って来たんだ」
「なんだい、いいものって」
「ゴミ箱でみつけたんだ」
「ほう、使い捨てカイロか」
「少しだけど、これを体に巻きつければ少しは暖まるよ」
「ありがとう」
電信柱は、ぺたぺたと使い捨てカイロを体に貼り付けました。
「ああ、なんだか暖かくなってきたような気がする」
「しばらくはそれで寒さをしのげるよ」
カラスは、ときどき気を利かして暖のとれるものを持ってきてくれるのです。あるときは、毛糸のマフラーを持ってきてくれたこともありました。それを首に巻いて眠ったこともあったのです。
 ある夜のこと、ひどい大雪が降って、翌朝は雪がずいぶん積もりました。歩行者が雪で転んだりしました。
夜になってからラーメン屋のおじいさんもやって来たのですが、屋台を引っ張っていたとき滑って足を骨折してしまいました。おじさんは商売が出来ずに、その後ラーメン屋はまったく来なくなりました。
 あるとき、電信柱は、ふと町の方を眺めてみました。
「ああ、町の電信柱がうらやましいな。あそこは電灯がいくつも付いているから夜も明るいし、電灯の熱で暖かいんだ」
 電信柱がいうように、この通りは電灯も少なくてずいぶん寒いのでした。
「一番いいのは、銭湯のそばに立っている電信柱だ。銭湯の湯気がときどき窓から流れてくるし、煙突の熱が周りにいつも広がって暖かい。おれもあそこに立っていたかったなあ」
 ある日のこと、この場所が薄暗くて歩行者が歩きにくいということで、電灯が何個か付けられました。
「やったあ、これで少しは暖がとれるな」
電灯の熱で、ほかほかと暖かく電信柱はニコニコ顔です。
 また電灯が付いたせいで、ときどきおでん屋がやってくることもありました。
おでんのいい匂いと、熱燗の匂いが上の方まで漂ってきます。
「ああ、毎年、こうして来てくれたら、冬はいつも暖かく過ごせるな」
ところが、ある年になって困ったことがおきました。
この通りの向かい側に、コンビニが出来たのです。お客さんはみんなコンビニでおでんを買うので、いままで営業に来ていたおでん屋が来なくなってしまったのです。
 電信柱は、また寒い冬を過ごさなければならなくなりました。






(未発表童話です)



2016年2月5日金曜日

エリーゼのために書いた曲

 その日は、霧が深く立ち込めた、冷え冷えとした肌寒い秋の夜だった。
ウイーンの町を流れるドナウ川のほとりに、にぎやかな居酒屋があった。そのお店からは、お客たちの笑い声が、この桟橋にまで聞こえてくる。
 しばらくすると、店からひとりの男が、すっかり酔っ払って出てきた。男は、この店の常連客であったがずいぶん気難しい性格だった。男の職業は作曲家だった。
「ああ、仕事ははかどらないし、耳は悪くなるいっぽうだし、おれの人生とはいったい何なのだろう」
ぼさぼさの髪の毛を掻き分けながら、男は、自分の下宿へと帰りはじめた。
 ところが、桟橋を渡りはじめたとき、気分が悪くなってゲボゲボと路面に吐き出した。
「ああ、毎晩こんな調子じゃ、おれの寿命もそう長くはないな」
 男が、そんな独り言を呟いたとき、霧の向こうに、ひとりの年若い女性が、橋の欄干に寄りかかって、寂しげに立ちすくんでいる姿を見かけたのである。
「こんなに夜更けに、女性がひとりで何をしているんだろう」
 男は、不思議に思いながらも、その女性の方へ近づいていった。
「失礼ですが、何か悩み事でもあるのですか」
 その声に、女性は、一瞬おびえたような表情をしたが、しばらくすると、落ち着いた様子で話はじめた。
「あの、わたし、ある男性に会う為にこの町へやってきたんです。でも、その男性は今、無実の罪で牢獄の中で暮しているのです」
 男は、話を聞いて気の毒に思った。
「そうでしたか。それで、その人の刑期は何年なんですか」
「四年と六か月です」
「長いですね。でも、気を落としてはいけませんよ。きっと真犯人は見つかりますから」
「ええ、わたしもそれを信じています。一日でも早くあの人が、鉄格子の中から出てくることを。そして、以前のような楽しい毎日がやって来ることを願っているのです」
 女性は、そういってから、手提げカバンの中から、何通かの手紙を取り出して男に見せた。
「この手紙は、あの人から受け取ったものです。手紙には、あのときの事件のことが詳細に書かれてあるんです。ご存知でしょう。ストラディバリの偽物を製造、販売して、捕まった事件を」
「ああ、あの事件ですか。ずいぶん評判になりましたね。新聞で読みました。その事件の犯人と間違えられたんですか。ひどいですねえ」
「ほんとうですわ。まったくの冤罪なんですから」
男は、女性の腹立たしげな様子を見ていたが、しばらくしてその女性は話題を変えていった。
「でも、終わったことだから、仕方がありません。いまは、早くあの人が出てくることだけを楽しみにしているのです。あの人ピアノを弾くんですよ。あまりうまくないけど。音楽は大好きなんです。だから、刑期を終えたらすぐに音楽会へ行きたい、そして、音楽会が終わったら、二人してカフェで、暖かいウインナ・コーヒーが飲みたい。そんなことを思っているんです」
 女性の話を聞きながら、男は、自分自身も嬉しい気持ちになってきた。
「そうでしたか。そんなに音楽が好きな人なんですか」
 しばらくして、男は、こんなことを女性にいった。
「わたしは、いまは売れてない作曲家ですが、あなたとその男性のために、素敵なピアノ曲を書いてあげましょう。そして男性が刑期を終えて出てきたら、わたしの音楽会へぜひいらっしゃい。ピアノ曲のタイトルは、あなたの名前を付けてあげましょう。わたしはベートーベンというものです」
 女性は、それを聞いて、いままでの暗い表情が急に明るくなった。
「ほんとうですか。ありがとうございます。あの人も、きっと大喜びするでしょう。わたしの名前は、ルイーゼと申します」
 その夜、その女性と別れた後、男は、翌日、さっそくピアノ曲の作曲に取り掛かった。けれども、昨夜のみ過ぎたせいもあって、なかなか筆が進まなかった。
 しかし、一週間後、努力のかいあって、すばらしい作品が出来上がった。曲自体は、三分ほどの短いものだったが、骨太の彼の作品としては、ずいぶん繊細な曲になった。
 男は、その曲に満足しながら、ウオッカを一杯ひっかけると、出来上がった楽譜の最初のページに、曲のタイトルを書き入れようとした。ところが、男は急に困った顔をした。昨夜の女性の名前が思い出せないのだった。
「弱ったな。昨夜は、ずいぶん酔っていたからなあ」
 男は、ぼさぼさの髪の毛を何度も掻きながら、思い出そうと懸命だった。
「エリーゼだったかな、いや、テレーゼではなかったろうか、いやや、ルイーゼだったような気もする」
 悩みつづけた挙句、男は、楽譜に「エリーゼのために」と、間違った名前を書き入れてしまったのである。その楽譜は、四年と六か月の間、机の引き出しの中に入れられたままとなった。
 さて、年月が過ぎて、男も、世間で知られるような作曲家になっていた。ある日、この町で約束の演奏会が開かれた。勿論、あの女性のために書いた「エリーゼのために」もプログラムに載せていた。
 男は、演奏をはじめる前に、何度も観客席を眺めたが、それらしい人物は見つからなかった。けれども男は、この会場に二人が必ず来ていることを信じて、ピアノを弾き始めたのである。彼が最初に弾いたのは、勿論「エリーゼのために」であった。
 後年、ベートーベン研究家たちが、この曲の創作動機と、その女性との関係をいろいろ調べたが、最後まで真相が分からずじまいになったのは、こういう理由からであった。
 けれども、男はその日の演奏会では、あの夜の事を懐かしそうに思い出しながら、心を込めてピアノを弾いたのである。





(文芸同人誌「青い花第20集」所収)