2025年3月3日月曜日

(連載推理小説)小浜線電車轢死事件

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 第1班による捜査は3日後に行われた。担当刑事は先ず事件現場の聞き込みから開始した。事件当夜、殺害された現場に誰かやって来なかったか聞き込みを行った。
 轢死事件のあったこの地区は、民家が40戸しかなく、住民以外の者がここへやって来ることはほとんどない。この地区にやって来た者があればすぐに眼に着くはずである。
 その結果、集落のある民家の50代男性から次のような情報が得られた。事件当日の午後9時40分頃、残業を終えてこの集落の自宅に帰って来たその男性が、轢死現場から70メートル離れた場所にある踏切を渡ろうとしたとき、踏切横の狭い空き地に、シルバーメタリックの乗用車が駐車しているのを見かけた。エンジンは止まっていてライトも消えていた。人は乗っていなかった。その時間帯は風と雨が強まり、車の中の様子はわからなかった。車のナンバーは覚えていないが、車種はトヨタカムリだと話した。
 担当刑事は、その時間は轢死時刻の約30分前に当たるので、恐らく犯人がその車に被害者を乗せてきて轢死現場まで運んでいたのではないかと推察した。この目撃情報は非常に重要なものである。
 その男性の話を聞いて担当刑事は、犯人は事件当日以前に、ここへ下見に来ていた可能性があると考えた。引き続き集落を一軒ずつ回って聞き込んだ結果、次のような情報を40代の主婦から聞いた。
 それは事件のあった1週間前の6月21日午後1時30分頃、同じ踏切の空き地にシルバーメタリックの車が停まっていた。20代の眼鏡を掛けた大柄な若い男性がマスクをして乗っていた。顔はよくわからないが、ブルーのネクタイをしていた。この集落の人ではなく見たこともない人だった。車は京都ナンバーだったと話した。
 担当刑事は、50代男性と、40代の主婦からの聞き込みで、その人物は京都ナンバーのシルバーメタリックのトヨタカムリでこの場所へ下見に来ていたのではないかと疑った。京都ナンバーの車であれば舞鶴市方面から青葉トンネルを抜けて、この地区へ入って来たと思われる。更に担当刑事は、下見に来たのはこの地区だけではないと考えた。頻繁に舞鶴市(京都府)方面からやってきたのであれば松尾寺駅から西へ1キロ先にある志楽交番の前をよく通過したのではないかと考えた。刑事は志楽交番へ問い合わせて確認してもらった。
 しかし交番の巡査は、
「シルバーメタリックのトヨタカムリですか、いや、見た覚えはありません。何度もこの国道を走っていったのなら一度くらいは見たと思いますが」
との返答だった。
 意外な答えに刑事は驚いたが、京都ナンバーの車であれば間違いなく京都府側からやってきたのである。
「轢死事件があった夜、その車はトンネルを抜けて舞鶴方面へ逃げて行った可能性があるが、見なかったか」
 巡査は、
「その夜は凄い強雨と風でとても外の景色は分かりませんでした。その時間帯はほとんど車は通らなかったと思います」
と返答した。
 担当刑事は、それならば犯人は国道27号以外の道を使ったのではないかと考えた。刑事の一人に、舞鶴市を通っている国道27号以外に高浜へ通じる道を調べさせた。その結果、京都市方面から舞鶴市へ向かう同じ国道27号の京都府綾部市山家の信号から山間を通って高浜、小浜方面へ通じている府道1号があることが分かった。綾部市は舞鶴市の南に位置する隣の市である。この府道を利用すれば舞鶴市を通過せずに直接、高浜、小浜方面へ行けるからだ。また交通量も少なく道幅も広い道なのである。
「犯人はその道を使った可能性があるな」
 担当刑事は、早速、山家の交番に問い合わせて事件当日から数か月前に、シルバーメタリックのトヨタカムリが頻繁に通らなかったか確認することにした。
 数日して山家の交番から連絡があり、6月上旬頃からその道を度々シルバーメタリックの乗用車が走って行くのを地域の住民が目撃していた。
 その目撃情報の中で重要と思われるものが一つあった。それは府道1号沿いの川上村の集会所の前にジュースの自動販売機があり、その前でシルバーメタリックの乗用車が停車しているのを農家の人が度々目撃していたのだ。ジュースの自動販売機はこの場所にしかなく、夏場や冬場はよく車が停車してジュースを買っていく。シルバーメタリックの車も停まっていた。顔は覚えていないが背の高い眼鏡を掛けたマスクをしたグレーのスーツ姿の若い男性だったと話した。
 担当刑事はその車は犯行に使われたものではないかと疑った。
 翌日、高浜町の交番から次のような新たな情報が小浜警察署に寄せられた。
 その情報は高浜港と高浜海水浴場の駐車場に、6月に入ってから、度々シルバーメタリックの乗用車が停まっているのを目撃した住民がいたのだ。6月5日の午後3時頃と、6月8日の午後4時頃、高浜港の船着き場に同色の京都ナンバーのトヨタカムリが停まっており、マスクと眼鏡を掛けた背の高いスーツ姿の若い男性が海を見ていた。また6月12日午後2時頃と6月18日午後4時頃には高浜海水浴場の駐車場に同色の京都ナンバーのトヨタカムリが停まっていた。人は乗っていなかったが、砂浜に背の高いグレーのスーツ姿の若い男性が長い時間海を見ていた。暑いのにマスクを掛けて海を見ていたのでよく覚えていた。まだ梅雨時期なので海水浴客は少なく、車の数も少なかった。砂浜で何をしていたのか分からないと話した。
 捜査本部ではその人物は、府道1号の川上村のジュースの自動販売機の前と、事件現場の青葉トンネンル近くの踏切の空き地に駐車していた同一人物ではないかと疑った。車と年齢、容姿、衣服などが一致するからだ。捜査本部では、この人物が事前に被害者を殺害する場所を調べていたのではないかと推察した。また事件当日は豪雨で、犯人はその悪天候を利用して殺害を計画していた可能性が考えられる。
 担当刑事は近畿運輸局(京都運輸支局)に問い合わせて、京都ナンバーでシルバーメタリックのトヨタカムリの所有者を調べてもらった。目撃情報で年齢が20代なので調査も限定される。また土地勘があり(高浜町に詳しい)ので遠方の人間とは考えにくい。手始めに舞鶴市、宮津市、綾部市、福知山市などを限定に調べてもらった。
 1週間後、京都運輸支局から次のような回答があった。20代でこの車種の所有者は、舞鶴市で12人、宮津市で9人、綾部市で11人、福知山市で13人であることが分かった。
この中に、事件当日にその車種の車に乗ってこの地区へやってきた人物がいると考えられる。犯人が国道27号を使った形跡がないことから、舞鶴市、宮津市方面の人間の可能性は少ない。反対に綾部市の山家の信号から高浜、小浜方面へ向かう府道1号で度々目撃されていることから、綾部市と隣市である福知山市の人間である可能性が高くなった。その理由から綾部市、福知山市の2つの市の所有者24人について重点的に調べることにした。(つづく)










2025年2月6日木曜日

(連載推理小説)小浜線電車轢死事件

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 福井県高浜町青郷のJR小浜線青葉トンネル入り口付近で、若い男の轢死体が発見されたのは台風第7号が若狭湾を通過した6月28日の夜だった。その日は台風の影響で夕方から夜にかけて風と雨が強まった。このトンネルは福井県と京都府の県境にあり、トンネルを抜けた1キロ先には京都府舞鶴市松尾寺駅がある。この付近は小浜線と国道27号が並行するように走っている。
 当日の午後10時15分頃、集落の農家の人が、懐中電灯を持って田畑の様子を見に行った時、降りしきる雨の中、トンネル入り口付近の線路の周囲に服の切れ端が散在しているのに気づいた。そばに行って見ると、線路のあちこちに血の付いた服の切れ端や肉塊が飛び散っているのに驚いた。それは電車に轢かれた人間の死体だと分かった。
すぐに4キロ離れた高浜交番に電話して巡査に来てもらった。ミニパトカーでやって来た巡査は、降りしきる雨の中、現場を見ると、
「これは酷いな。最終電車に轢かれたな」
 巡査は携帯で小浜警察署に連絡した。小浜警察署ではその連絡があった数分前に、小浜駅から敦賀駅発西舞鶴行きの最終電車が午後10時06分頃、同トンネル入り口付近で、野生動物らしいものを轢いたという連絡を受けていた。この場所は緩やかなカーブになっており、前方を確認しにくい。電車の運転手の話によるとその時刻に現場に差し掛かったとき強雨のため視界が悪く、何かを轢いような感触があったが、急停車はせず、松尾寺駅に着いてから報告したと話した。
 遺体発見後30分して小浜警察署からパトカー4台が現場へ駆けつけた。すぐに鑑識官による現場鑑識が行われた。その騒ぎに驚いた集落の住民が傘をさしてその様子を見に来たが、警官の指示で、現場鑑識が済むまで現場に近づかないようにしていた。20分遅れで二人の刑事を乗せたパトカーが到着した。雨はやや小降りになった。
 二人の刑事はさっそく現場を視察した。鑑識官による遺体の状況は次のとおりだった。遺体は4つの部分に切断されており、一つは頭部、一つは胴体、両足が2つ。頭部は轢死した場所から右側の草むらの中から見つかった。距離にして13メートルも飛んでいた。胴体は両腕が付いており、線路からわずかに5メートル離れた場所で見つかった。右足と左足は太腿部分から切断され、8~9メートル離れた田んぼの中で見つかった。
 ほかに轢死現場から西側20メートル離れた田んぼの中から白いマスクが発見された。風が強かったため飛ばされたものと思われる。被害者が付けていたものかは不明。
 二人の刑事はその状況を見て、轢死者は線路上に真横に寝た状態で電車に轢かれたと推察した。頭部を調べると酒をかなり飲んでいたと思われるようにアルコールの匂いがした。しかしこんなところに一人で来るはずもないので、誰かにここまで連れて来られて意図的に殺害されたものと推理した。
 衣服のほかには茶色のスニーカーを履いていた。ズボンのポケットに、財布とメモ帳が入っていた。本人を確認する免許証などはなかった。財布には一万円札1枚と千円札6枚とわずかな小銭とレシートが数枚入っていた。メモ帳には乱雑に数字が書いてあった。刑事たちはこれらの遺留品をさっそく持ち帰って調べることにした。
 初動捜査は雨の中で約6時間にわたって行われた。遺体は遺体搬送車に乗せられて鑑識課に回された。その後1週間ほどこの場所は立ち入り禁止になり、警察が轢死した周囲を丹念に調べていた。
 小浜警察署では現場の状況から他殺が疑われるので直ちに捜査本部を立ち上げた。
 数日後、鑑識課から次のような解剖結果が報告された。
採取された指紋から被害者の氏名、本籍、住所、年齢などが特定できた。氏名は浅井武史、本籍は福井県小浜市F町21番地。住所は高浜町S5番地(白木アパート)。年齢26歳。前科なしだが、今年3月、若狭自動車道路でスピード違反と危険運転で免許停止中になっている。そのときに取られた指紋より確認。被害者の血液型はA型、身長161㎝、体重53㎏。小柄である。胃の中からアルコールと睡眠薬が検出された。アルコールはウイスキーであることが分かった。被害者は事前にこれらを飲まされていたのである。頭部は外傷があるが判別可能。胴体は内臓が半分近く飛び散っていた。両足は切断部分以外損傷が少ない。衣服は水色のシャツ、紺色のジーンズ。胴体部分の3メートル離れた場所に腕時計が外れて落ちていた。轢死時刻に針が止まっていた。死亡推定時刻は当日午後10時06分。死亡前は熟睡していたと思われる。鑑識課からこれらのことが報告された。
 当日は上述のように台風第7号が強い勢力を維持しながら紀伊半島を上陸し、その後北上を続け、夜に若狭湾を通過した。福井県でも台風の接近に伴って雨と風が強まった。
 そのような天候だったので、電車の運転手は雨による視界不良のため、動物か人かの確認ができず、そのまま通過した。このあたりは山が近く、夜は頻繁に野生動物が出没する。これまでにも幾度も野生動物を轢いた事例があった。
「今回の電車による轢死は、現場の状況から初動捜査どおり他殺が考えられる」
 捜査課長は現場の様子から、何者かが被害者をこの現場に運んで線路上に寝かせて電車に轢かせたと想定した。
 捜査課長の指示により、捜査は2班に分けられて行うことになった。第1班は、被害者を現場に運んで殺害し、その後逃走した人物の行方を追うこと。また事件当日及びそれ以前に事件現場に犯人と思われる人物が住民によって目撃されていないか聞き込みを行うことである。
 第2班は、轢死した現場で収集された遺留品から被害者の身元を調査し、殺害された動機などを調べることだった。(つづく)







2025年1月2日木曜日

(連載推理小説)夢遊病者の犯罪

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「夢遊病者の分析と行動心理の研究」

 私は大学の医学部で精神病者の臨床を行う内に、夢遊病の研究に時間を費やした。組織の中での仕事が嫌いな私は開業医としてつつましく生活をしていた。その片手間に無意識の状況下で起こる夢遊病の研究に没頭していたとき、ある実験がしてみたくなった。それは人間を自分の思い通りに行動させることが出来るかどうかの実験だった。それが可能であればこれまでの私の研究の立証もできるからだ。はじめは夢遊病の症状のある患者を意図的に歩かせたりしていたが、やがて彼らに仕事を与えることを思いついた。恥ずかしい話だが、医院を開業したにもかかわらず、人当たりが悪い私は評判も悪く、来院者はほとんどなく、私はいつも金欠病に悩んでいた。また私には心臓に持病があり、常にその治療のために多額のお金が必要だった。私はそれらを解決するために別の仕事をしなければならなかった。しかしそれはずいぶん危険を伴う仕事だった。他人の家に忍び込んで金品を奪うことだったからだ。先ず、どんな鍵でも開けられる技術を習得しなくてはならなかった。幸い私は医学部の学生の頃、合鍵を作る会社にアルバイトで働いたことがあった。そこでどんな鍵でも開けられる技術を習得した。その技術を夢遊病者に教えることによって目的を達せられるのだ。
 私は臨床の時に使っていた多数の夢遊病患者のリストを所持していたので、氏名、住所などの個人情報を容易に手に入れることが出来た。私はそのリストの中から、私の仕事をこなせる者を選んだ。私の仕事を達成させるにはどんな鍵でも開けられる器用さが必要なのである。だから不器用な者は除外した。私は職業に注目した。リストの中から器用さが求められる職業、例えば工芸職人、時計修理師、絵画修復師、美容師、理髪師などを選んだ。これらの職業に従事している者は習得が早いからだ。
 次にリストから選んだ人物の住所を調べた。住所が分かると、毎夜、その人物の家に行き、息を潜めてその人物の行動を監視した。でも、その人物が夢遊病の症状が現在も続いているのかどうかは今の私の仕事を行わせるうえで重要ではなかった。重要なのはその人物が現在も症状が続いていることを信じ込ませることだった。私の暗示によってその人物に現在も症状が続いていることを自覚させることが出来ればいいのだ。なんとか彼らと顔見知りになり、その病気をただで治療する約束ができれば成功である。あとは医院に来させ、催眠によって鍵を開ける技術を習得させることなのだ。
 私は催眠の技術も心得ていた。それについての論文も書いたことがある。あとひとつ重要なことがあった。それは催眠状態の中で人間は善悪の判断が出来るのかどうかの問題であった。その問題について私の実験結果で新事実を知った。無意識の状況下でも人間には善悪を判断する能力が備わっていることだった。一部の悪人を除いて、多数の人間には無意識化でも善悪の判断が出来る。しかしそれは私の仕事を行う上で障害になった。私はその問題を解決する方法を考えそれにも成功した。それは行動させる理由を正当化させればいいのだ。それによって夢遊病者は納得して行動するからだ。例えば、この会社では秘密裏に細菌兵器を製造するための資金を集めているから、その資金を奪って止めさせなければいけないと暗示をかける。夢遊病者はその説明に納得して行動を起こすことが出来るのだ。それによって本人は罪の意識を持たない。まして夢の中での出来事なので、目覚めたときは何の記憶もないからだ。
 次にどのようにして彼らに作業を学習させたかだ。医院で催眠によってそれらの技術を教え込み、実践する時は、夢遊病者に小型のイヤフォンを付けさせて、無線によって指示するやり方だった。そのために私は目的の会社のことを徹底的に調べた。どこの部屋に金庫があるか、鍵はどんなものか、その下準備に私は時間を費やした。そして、行動する日に患者に指示した。作業が終わると私は自分の車に患者を乗せて帰った。
 彼らは夢の中で行った行動なので事件のことは何も覚えていない。しかし、断片的なことは記憶しているようで、作業が終わった後、そのことを話させて記録した。そうやってこの三年ほどの間に、いくつかの犯罪をやった。だが、今回イヤホンを紛失するというミスを犯してしまった。私は焦った。イヤホンには私の指紋が付いているからだ。私には前科がある。警察はそれを見逃す筈はない。逮捕されるのは時間の問題なのだ。心臓の疾患もあり、最近、作業で動き回ったせいか、体調が思わしくない。いろんな薬を飲み、またいろんな医者にかかったが、改善する見込みがないのだ。盗んだ金銭もすべてそれに使ってしまった。この市へ来てひと月経つが、今はもうこのような事件を起こす気力もなくなった。
 数日前、私は交番から盗んだ拳銃をつかって死ぬことを計画した。拳銃を盗んだ理由は万一の時の自殺用だった。しかし、いざ覚悟を決めて拳銃を握ると、手が震えて引き金が引けなかった。これでは死ぬことも出来ないのだ。私は悩んだ、そのときいい考えが浮かんだ。
「そうだ、夢遊病者に引き金を引かせよう。それも私が眠っている間にー」
 私は自分を殺害してくれる夢遊病者を探し暗示を与えた。日程と時間を指定し、拳銃によって私を撃ち殺すように指示したのだ。それによって安心して死ぬことが出来るのだ。今夜、夢遊病者が指示どおりに私の家にやってくる。私はその時、この世と永久に分かれることになるのだ。―
 手記はこのように書かれていた。この手記によってこれまでの事件の全容が解明された。脇田正也は、心神喪失状態であることが認められ拘置所から出ることが出来た。しかし、しばらくの間はいままでの事件の夢を頻繁に見た。(完)



















2024年12月1日日曜日

(連載推理小説)夢遊病者の犯罪

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 数日後、脇田正也は、容疑者の一人として留置場に入れられた。刑事は、脇田正也の供述を聞いて、翌日となり町の医院を訪ねた。供述どおり医院は空き家で、医者は姿をくらまし ていた。担当刑事はその家を調べた。
 その家は五年前から空き家で誰も住んでいなかった。不動産屋に聞くと、その家は昔、整体治療院として使われており、現在は誰にも貸していないと話した。そのことからその医者は毎週月曜日の決まった時間だけこの空き家に無断で入り込み、開業医のふりをしていた事が分かった。周囲は竹藪で近くに家はなく、ほとんど誰も気づかなかった。
 車のことも分かった。いつも竹藪の中に黒い車が止めてあったのだ。車のナンバープレートには黒い布切れがかぶせてあった。一度、近所の子供がその布を外して車のナンバーを記憶していた。
 刑事がその車を調べてみると、その車はC県T市で盗まれた盗難車であることが分かった。更に盗難にあった時期に、いくつかの事件がT市で発生していた。その中で今回の事件と似通った未解決事件があった。
 それは二年前、3件の盗難事件が起こっていたのだ。金券ショップ、カードローン会社、高級ブランド店だった。それらの未解決事件も深夜、店の鍵を外して侵入した犯行だった。最近、その事件の犯人が捕まったが、指示を出していた人物は行方不明のままだった。捕まった犯人を鑑定した結果、夢遊病者であることが分かった。今回の事件と同様、本人は犯行のことは何も覚えていなかった。犯人の供述によると、数か月前からある医者に夢遊病の治療を受けていたことが分かった。今回の事件と同じである。
 捜査会議では、T市の事件と今回の事件は同一犯人による犯行だと断定した。指示を出していたその人物は、夢遊病の専門知識があり、また催眠術も心得ている。だとすれば真っ先に精神科医が頭に浮かぶ。またその人物は、多くの夢遊病患者のリストを所持しており、それを利用して犯行を行ったのではないかと疑われる。犯罪に常習性があるので、先ず前科のある精神科医を調べてみた。その結果ある医師が捜査線上に浮かんだ。過去に数回、書店で精神医学の専門書を万引きして逮捕されていたのだ。
「その医者を調べよう」
 警察は、その医者が逮捕された時の調書、写真、指紋などを詳細に調べた。また事件現場に落ちていた無線用イヤホンについても調査した。その結果、イヤホン本体には指紋は検出されなかったが、イヤホンに改良を加えた跡があり、外枠の内側にわずかな指紋が検出された。指紋を整合させた結果、その精神科医の指紋と一致した。逮捕された時の調書から、医者の名前は神谷俊一という医師だと分かった。夢遊病や夜驚症の専門医で、現在、行方をくらましていた。若い頃、地元の県立病院に勤めていた時期があり、在職中、夢遊病に関する医学論文を多数執筆し、医学雑誌に載せていた。
 当時、勤めていた県立病院の同僚からの聞き込みでは、精神科医としては優秀な人物ではあったが、視野が狭く、協調性に欠けるところがあり、組織の中では働けない人間だった話した。また心臓に持病があり、それが原因で早く病院を退職していた。
 数週間後、県内のF市郊外のガソリンスタンドで盗難車と思われる黒い乗用車を見たとの情報が寄せられた。事件が新聞に掲載されたため、店員がその車のことを覚えていたのだ。更に車に乗っていた人物の特徴が行方不明の医者と似ていた。
 店員の話によると、その人物は最近この市にやって来て、たびたび燃料を補給しに来た。近辺の住民からの聞き込みで、その車はF市郊外の閑静な山の山荘で度々目撃されていた。警察はその山荘の捜索をはじめたが、すでにその人物は引っ越していた。警察はその人物がまだ拳銃を所持しているので、捜査の手を緩めることが出来なかった。引き続き、その医者の行方を追っていた。
 事件から一か月が過ぎてから、同県のS市の警察署から連絡があった。容疑者と思われる医者が自宅アパートの一室で死亡したという連絡だった。深夜、銃声が聞こえたので、アパートの住民が警察に通報したのだ。使われた拳銃は、交番から盗まれたものだと分かった。死因は拳銃による自殺と判定された。しかし、後になって他殺と訂正された。訂正された理由は、撃たれた弾痕からだった。拳銃は左後頭部から撃たれている。通常、自殺者が左利きでない限り、右手で右側後頭部を撃つのが普通である。死亡した医者は右利きである。しかし弾痕は左後頭部にあるのだ。だとすると医者は何者かによって頭を撃たれたと考えるが自然である。警察は予想外のことで困惑し、新たな疑問にぶちあった。誰に殺されたのだろう。
 また机の引き出しの中に、死亡した医者が書いた一連の盗難事件に関する手記が残されていた。手記には、「夢遊病者の分析と行動心理の研究」と題名が付けられ、医者の名前、神谷俊一と書かれていた。警察はそれを重要参考資料として調べた。捜査会議でこの手記の内容が検討されたが、それにはこれまでの盗難事件のすべての真相が詳細に書かれていたのである。(つづく)










2024年10月31日木曜日

(連載推理小説)夢遊病者の犯罪

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 四日後、注文していた帆船模型が宅配で届いた。以前は模型店へ行って買っていたが、品数が多いネットでの購入はやはり便利だった。帆船模型の制作は時間が掛かるので、仕事が暇なときに制作した。大航海時代のスペイン船やポルトガル船、イギリス船などが好みだが、その日は十九世紀に活躍したフランス海軍のナポレオンという軍艦を買った。塗料を塗りながらの作業はさらに時間が掛かるが仕上がりは実によい。
 数日後、店が終わってから自宅で帆船模型を作ることにした。ところがいつも使っているピンセットと小型のドライバーが見当たらないのだ。どこにしまったのだろう。机の引き出し、戸棚の中を調べたがないのだ。洋服ダンスの中もついでに調べてみた。洋服ダンスの隅に黒いレインコートが入れてあった。ところがその黒いレインコートを見た時驚いた。最近まったく着ていないのに雨に濡れたあとがあるのだ。更に驚いたのは、レインコートのポケットに手を入れた時、中から、探していたピンセットと小型のドライバー、それから白い手袋と数本の針金が入っていたのだ。こんな物を入れた覚えはない。なぜだろうと考えたがまったく分からなかった。
 そのような時期に次の事件が起きた。
 運送会社の事務室から三千万円の現金が金庫から盗まれたのだ。事務室は三階にあり、何者かが会社の裏口のドアの鍵を開けて中へ入り、事務室の金庫のダイヤルを器用に外して盗んだのだ。
 その夜も雨の日で、犯行が行われた時間帯に近くのアパートの住民が、窓の外の歩道を歩いて行く黒いレインコートを着た人物を目撃していた。その男は運送会社の前で長い時間立ち止まっていた。歳は三十代くらいの男だったと話した。警察はその黒いレインコートを着た男の行方を追っていた。
 翌日、店にやって来た客たちも各々その事件のことを話した。
「犯人は、何度も運送会社を下見に来ているな。金庫が置かれている部屋を知っているんだから。そうなるとこのあたりの人間だな」
 客の話を聞きながら脇田正也もそう思った。
 頻繁に発生する事件のために、住民たちはまったく落ち着かなかった。地域の警察は犯人の割り出しを急いでいた。不可解な事件がいくつも起こるので脇田正也は次第に自分自身に疑いの目を向けるようになった。
「もしかしてこれらの事件は、すべて自分の仕業ではないのか」
 理由は分からない。しかし事件の犯人の特徴が自分によく当てはまるのだ。
「ひょっとして俺はあの医者に暗示をかけられて、犯行をさせられているのではないか。病気を治してやるといいながら、まったく症状は改善していないのだ。それどころか病気が前よりも悪くなっている。奇妙な夢を見るのもそのせいだ」
 脇田正也はそう感じたので、今度医院に行ったら医者のことを調べてみようと思った。
 月曜日がやって来ると医者に会いに行った。ところが、医院へ行くと、入口のドアに「本日休診」と札が掛かっていた。
「おかしい、どんな用事があるのだろう。それに俺には何の連絡もない」
 その日は仕方なく帰ることにした。
 しかし次の月曜日に出かけると、医院の看板は外されて、入口のドアは閉まっており、ただの空き家になっていた。
「いったい、あの医者はどこへ行ったのだろう」
 不可解なことばかりなので、脇田正也は驚き、呆然となった。でもそれは最初の序章に過ぎなかった。家に帰って来てから、しばらくした時玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、二人の警官が立っていた。
「最近起きている盗難事件の件で、任意で調べたいことがある。ご足労だが署まで来てくれないか」
 警官の言葉に脇田正也は驚いたが、自分に容疑が掛かっていることに自分自身気づいていたので、この際、すべてのことを警察に話した方がよいと思った。
「分かりました」
 警官に連れられて脇田正也は警察署へ行った。
 警察署の取調室に入ると刑事から次のような質問を受けた。刑事は封筒の中から何枚かの写真を取り出して言った。
「この写真の人物は君じゃないかね。盗難のあった運送会社の駐車場の監視カメラで映った映像の一部だ」
「私はそんな所へ行った覚えはありません」
 脇田正也は、刑事の指摘に真っ向から否定した。でも、写真をよく見ると確かに自分に似ている。帽子を被っているので正確のところは分からない。でもよく似ている。
「しかし、事件現場にいたのは君だ。それから、あとの二つの盗難事件もそうだ。犯人はいくつかの証拠を残している。最初の交番に侵入した事件からだ。犯人が拳銃の入っている机の引き出しの鍵を外したときに使った針金とピンセットに付着していた塗料が検出できた。君の趣味は帆船模型の製作だね。君の店の常連客から聞いた。塗料は模型製作の時に使うものだと分かった。次の事件でも同様に外した鍵穴に塗料が着いていた。
 ほかにも証拠がある。金庫室の床に無線用のイヤホンが落ちていた。片方の耳に付けていたものだ。どうして犯人は落としたことに気付かなかったのだろう。正常な人間ならすぐに気づくはずだ。その答えは簡単だ。犯人が半睡眠状態で、正常な意識ではなかったからだ。君にはその症状があるね。君は無線によって誰かの指示を受けて運送会社へ入ったのだ。我々はその人物を探している。君が黒いレインコートを持っていることも知っている」
 刑事は近所の人や常連客から自分のことをすべて聞き込んでいたのだ。
 脇田正也は呆然となった。これまでの一連の事件がすべて自分がやったことだったからだ。それも自分の病気を利用しての犯行だった。証拠はそろっているのだ。無実を証明しないと全部自分の犯行にされてしまう。脇田正也は、自分が夢遊病者で、医者に暗示を掛けられて犯行を行ったこと、そして毎週医院に通院していたことをありのままに話した。(つづく)








2024年10月1日火曜日

(連載推理小説)夢遊病者の犯罪

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 二週間が経ったある日のこと、脇田正也はいつものように店で仕事をしていた。近所の常連客がやって来て散髪を頼んだ。脇田正也は毎日鋏を動かしながら仕事に集中していた。あるとき客のひとりからこんな話を聞いた。
「あんた知ってるかね。昨日の深夜、となり町の交番で拳銃が盗まれたんだ。巡査が仮眠していたとき誰かが入って盗んでいったらしい」
 客の話に脇田正也も驚いた。
「本当ですか。大胆なことをする泥棒ですね」
「いま警察で犯人の行方を追っている。なんでも拳銃が保管されていた部屋の机の引き出しの鍵を外して奪ったそうだ。素人には出来ない芸当だな」
「でも、拳銃を奪って何に使うのでしょうね」
「そりゃあ、決まってるさ。強盗をやるのさ」
 その事件は早速その日の新聞に載った。店が終わってから脇田正也もすぐに読んでみた。新聞の記事によると昨夜は小雨が降っており、どの家も電灯を消して眠りについていた。事件が起きた時刻、交番から東へ百メートル離れた場所にタクシー会社があり、深夜勤務の従業員が、犯行が行われた時間帯に、黒いレインコートを着た人物が交番の方へ歩いて行く姿を目撃していた。黒い帽子を被っていたので顔はわからない。その時間帯は人通りもなくほかには誰も通行していなかった。警察は事件が起きた時刻に交番の方へ歩いて行ったその人物に焦点を当てて調べていた。
 店にやって来る客たちも新聞を読んでその話題を盛んに脇田正也に話した。
「盗まれた拳銃で事件が起きないといいが。でも犯人はどんな奴だろう」 
 客の話を聞きながら鋏を動かす脇田正也だったが、その事件のことよりも最近気になることがあった。それは夜中に見る夢のことだった。夢の中で奇妙な音が聞こえるのだ。それは雨の音であったり、歯車が回る音だったり、はっきりと分らない。が、そんな音が頻繁に聞こえてくるのだった。
「以前はそんな音のする夢など見なかったのに、どうしてだろう」
 月曜日が来て、脇田正也は約束どおりとなり町の医院へ行った。
 医者はいつものように脇田正也をソファーに寝かせて精神分析を行った。脇田正也は最近よく見る夢のことを医者に話してみた。
「その症状はいつから起きている」
「二週間くらい前からです」
「そのような夢をこれまで見たことはなかったかね」
「はい、一度も」
医者は話を聞きながらカルテに記録していく。
「最近、働き過ぎではないかね。その音は仕事で使う鋏が触れ合うような音ではないか」
「そうかもしれません。いや、分かりません」
「ほかに夢の中でどんな景色が見えるかね」
「夜道を歩いている夢が多いです。雨降りの中をー。断片ばかりでよく覚えていません」
「そうかね、でも心配することはない。君はお店でいつも客の髪を洗っている。たぶん水道を流す音だ。誰にでもある夢だ。さあ、心の中にあることをすべて話してみたまえ」
 医者に言われて脇田正也は夢の内容を詳しく話した。
診察は二時間くらいだが、いつも眠り込んでしまい目覚めると、精神安定剤だと言って薬をくれた。そして日当五万円を貰って帰った。
 一週間が過ぎたある日のこと、客が言ったように、別の町で盗難事件が起きた。その夜も雨が降っていた。事件があったのは高級貴金属店だった。深夜、一時頃、その店に何者かが侵入し、ガラス棚に保管されていた二千万円相当の貴金属が盗まれたのだ。
犯人は店のドアの鍵を難なく外し、店内に侵入したのだ。深夜のことで目撃者はいなかった。だが、事件が起こる一時間前、近くの公園の中を、黒いレインコートを着た男が公園の中をうろついている姿を近所の人が目撃していた。また事件が起こった後、黒い乗用車が猛スピードでこの町から出て行ったとの情報があった。
 警察は犯人がその車に乗って逃げたと推察した。店に侵入したのは黒いレインコートを着た男だが、車を運転していたのは別の人物だと睨んだ。
「先日の交番の事件と犯人の人相が似ているな。おそらく同一犯人の仕業だな」
 店にやって来る客はいつも事件の話をした。
 脇田正也は鋏を動かしながら客たちの話を聞いていたが、ふと気になることがあった。それは犯人が着ていた黒いレインコートのことだった。脇田正也も黒いレインコートを持っているのだ。若い頃は車を所有していなかったので、いつも自転車を使っていたとき着ていたのだ。でも今は洋服ダンスの奥に閉まってある。
「まさかー」
 変に思ったが、自分が持っている黒いレインコートと今起きている事件とは何の関係もないので、それ以上のことは深く考えなかった。
客の髪を切り終えると、脇田正也は、髭剃りの準備をはじめた。
 客はその間、店に飾ってある帆船模型を眺めながら、
「今も帆船模型は作っているのかね」
 客が尋ねたので、脇田正也は、
「はい、数日前に、ネットで三万円の帆船模型を注文しました」
「そうかい、また完成したら見せてくれ」(つづく)






2024年9月2日月曜日

(連載推理小説)夢遊病者の犯罪

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 脇谷正也は、ある町で理髪店を経営していた。店を開店して五年になる。歳は三十六歳。結婚には縁がなくいまだに独身だった。
 手先が器用だったので、理髪師になったのは当然といえた。それに子供の頃から模型作りが好きで、自分で制作した世界の帆船模型を店内に飾って客を楽しませていた。
 物静かで平凡な人物だったが、人には言えないある秘密があった。それは子供の頃からの病気で、夢遊病の症状が起きることだった。両親は早く亡くなったが、その病気は小学生の頃から現在も続いていた。それは決まって真夜中に起きた。夜眠っていると無意識にベッドから起き出して家の庭や近所を歩き回ったり、近くの公園の中を徘徊したり、べンチに長い時間腰かけていることがあった。でも朝、目が覚めると何も覚えていないのだ。彼にそんな症状があることを知っているのは、亡くなった両親と近所のごく親しい人たちだけだった。
 ある日のこと、彼の理髪店に眼鏡をかけた六十歳くらいの細身の背広服の男がやって来た。
「少し切ってくれないか」
「髭は剃りますか、シャンプーは」
 男は全部頼むと言った。
 脇田正也は手際よくケープを掛けて、さっそく作業を始めた。
 慣れた手つきで髪を切っていると、男は周りの帆船模型をちらちら見ながら、
「君が制作したのかね。上手く作るね」
「店が暇なときに作っています」
 男はそれを聞きながらしばらく何か考えてから徐に言った。
「私はとなり町で医院を開業している医者だが、君のような手先が器用な人を探している。どうかね、週に一度医院に来てくれないか」
 鋏を動かしながら脇田正也は驚いた。
「ご覧のとおり、毎日働いています。そのような余裕はないですね」
「日当五万円払うが、どうだね」
 その金額を聞いて、鋏を動かす手が止まった。
「まさか、冗談じゃないのですか」
「いや、本気だよ。大事な仕事をしているから伝って欲しいんだ」
「どんな仕事ですか」
「医院に来てくれたら詳しく話す。なあに、そんなに難しい仕事ではないよ」
 脇田正也は当然迷ったが、日当五万円が頭から離れず、
「じゃあ、一度伺いますか」と気軽に答えた。
 五日後の月曜日、店が休みのときに、脇田正也はとなり町の医者の医院へ出かけて行った。医院は町はずれの竹藪に囲まれた静かな場所にあり、近くには家もなかった。 
 二階建ての旧い木造の建物で、正面入口には「兵藤精神科医院」と表札が掛かっていた。ドアを開けて中へ入った。中はがらんとして額縁ひとつ飾られていなかった。受付の机の上に呼び鈴があったのでそれを鳴らした。しばらくして医者がドアを開けて現れた。
「よく来てくれた。どうぞこちらへ」
 医者の後ろからついて行った。廊下を歩いて一番奥の部屋に通された。六畳の狭い洋室で、ソファーに座るように言われた。
「ご足労だったね。まあ気楽にしたまえ」
 医者は笑って言った。
「医院は先生おひとりですか」
「ああ、昨年まで受付けの女性がひとりいたのだが、家庭の事情で辞めてしまってね」
 あいさつを済ませると早速話に入った。
「あなたに引き受けてもらって感謝している。手伝いをする人がいなくて困っていたのだ」
「どんな仕事をするのですか、まずそれを教えてください」
 脇田正也は早く仕事の内容が知りたかった。
「仕事のことを話す前に、あなたはご存じないと思うが、私はあなたと二度ほど会っている」
 医者の話を聞いて、脇田正也は驚いた。
「どういうことですか、何のことかさっぱりわかりません」
「そうだろう。あなたが覚えていないのは当然だ。一度目は、自宅から五分ほど離れた歩道だ。もう一度は自宅近くの公園の中だ。いずれも深夜だった。私はあなたの住んでいる町へ用事で頻繁に出かける。そのときお会いしたのだ」
 脇田正也は声も出なかった。どうして自分の病気のことをこんなによく知っているのだろうか。
 医者は話を続けた。
「私は長年、医院の仕事の傍ら、あなたのような病気をお持ちの方の研究を続けている。できればあなたの病気を治してあげたいのだ。あなたにやってもらう仕事は慎重さがいります。その前に先ずあなたの病気を治してからにしたいのです」
 医者の話に、脇田正也は訳が分からなくなってしまった。私がやる仕事とは何なのか、またどうして私の病気を治療してあげようというのかさっぱり分からないのだ。
「どうですか、私のいうとおりになさればあなたにとっては二つの利益になります」
 脇田正也はどう判断してよいのか分からなかった。仕事の内容を教えてくれないのですぐに断ろうかと思った。しかし日当5万円は魅了的だった。それに無料で自分の病気も治してくれるのだ。脇田正也はしばらく考えていたが、医者の頼みを引き受けることにしたのだ。
 その日からその医者との付き合いが始まった。毎週月曜日が来ると、その医者に会いに行った。医者は、ソファーに脇田正也を寝かせて長い時間を掛けて精神分析を行った。医者も疲れてくるのか、ときどきポケットから錠剤を取り出して飲むことがあった。だが、いつになっても仕事の内容を教えてくれないのだ。しかし医者の指示には従わなければいけない。帰るときは約束どおり日当五万円を貰った。(つづく)