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これまでの捜査で、犯人は黒田という税理士であることは間違がない。彼は妻の多額の損失を支払うために被害者を殺害し、資産を奪ったのだ。おそらく彼の妻はどこかに身を隠している。警察は逃げた黒田という税理士の行方を追うことにした。
税理士の住んでいた住居は、綾部市N町の5階建てのマンションだった。管理人の話では6月29日に退去したといった。どこへ移ったのか知らない。担当刑事が管理人に変わったところはなかったかと尋ねると、
「はい、退去する日にいつも乗っていたシルバーメタリックのトヨタカムリが駐車場になく、歩いて出て行きました。大きな旅行鞄を持っていました」
と答えた。
その話を裏書するように、数日してから犯人の車と思われる重要な情報が警察署に入った。
事件当日(6月28日)の夜、綾部市から高浜町へ通じる府道1号で、一台の車がガードレールに車体をぶつける事故があった。近くにシカの死骸があり、恐らく車で轢いたものと思われる。車はスリップして運転席側の車体が反対車線のガードレールにぶつかった跡があった。ガードレールにはシルバーメタリック車の塗装が付いていた。その時も雨と風が相当強まっていた。
担当刑事はその報告を聞いて、その事故を起こしたのが税理士の車だとすると事件当夜、税理士がかなり慌てていたのではないかと考えた。
税理士は青葉トンネル入り口付近の事件現場で、被害者を線路上に寝かせていたとき、強風でマスクを飛ばされた。税理士はマスクを必死で探していたと思われる。もしもマスクに自分の唾液が付いていたら血液型を調べられる。税理士はそのような精神状態だったため、事故を起こしたのではないか。
「税理士は事故で車が傷ついたためマンションの駐車場に置くことが出来ずにどこかに隠した。逃走するには車が必要である。車を処分していなければその車をまだ使っている可能性がある」
警察は京都府全域の警察、交番、駐在所に問い合わせて、電車轢死事件発生後の6月28日以降に車体が傷ついたシルバーメタリックのトヨタカムリを調べさせた。綾部市から京都市方面へ向かう国道27号からの情報で、車体が破損している車がその日以降数台目撃されたがいずれも車種と色が違っていた。
高速道路からの情報ではそのような車は見かけなかったと連絡してきた。
「では、車をどこかへ破棄して、ほかの手段で逃げたのかもしれない」
もっとも考えられるのは電車である。事件当日の翌日(6月29日)に、綾部駅から乗車した人物について駅に問い合わせた。大きな旅行鞄を持っているのでその日に目撃者がいるのではないかと考えられるからだ。
数日して、綾部警察署に次のような連絡があった。逃走中の車が、綾部市の伊佐津川河川敷近くの林の中で発見されたのだ。落ち葉や枯れ枝が被せてあり、発見が遅れたのだ。その車は右側車体が酷く破損したシルバーメタリックのトヨタカムリだった。車体ナンバーから黒田税理士の車に間違いなかった。
翌日、綾部駅から次の報告があった。
犯人と思われる眼鏡とマスクをした背の高い20代男性が6月29日に、大きな旅行鞄を持って9時56分発JR山陰本線特急きのさき10号京都行のホームに立っていた。右手首に包帯を巻いており、衣服は白のワイシャツ、ブルーのネクタイ、グレーのスーツ、黒の革靴だった。男性はその電車に乗ったと話した。右手首に包帯をしていたのは、事故の時のケガと思われる。
さらに当日その電車に乗っていた乗客からの目撃情報があった。その乗客の話によると、2号車のドア近くの右側の座席で、盛んにスマホばかり見ている手首に包帯をした眼鏡とマスクをしたスーツ姿の若い男性がいた。10時36分に園部駅を発車してからトイレに行こうと思ってその場所へ歩いて行くと、男性のスマホの画面が見えた。それには福井県高浜町の記事が表示されていた。トンネルの写真が写っていて、その周りを多くの警官が何かを探している写真だった。男性はその記事を食い入るようにいつまでも見ていた。
あとでニュースを見たので、それは福井県高浜町の電車轢死事件だったと知った。
犯人と思われる人物を目撃したという報告はほかにもあった。
同日、11時05分頃、京都駅のホーム内売店近くのベンチに手首に白い包帯をした背の高い眼鏡とマスクをした20代のスーツ姿の男性が腰かけていた。白のワイシャツ、ブルーのネクタイ、グレーのスーツ、黒い革靴で、綾部駅のホームに立っていた男と同じである。男性は11時30分京都駅発の関西国際空港行特急はるか23号が着くまで、始終スマホを見ていたが、ホームの売店に入り、ジュースと新聞を買った。電車が入って来るまで新聞を熱心に読んでいた。ジュースを飲んでいるときマスクを外しており、右耳の下に大きなホクロがあるのが見えた。また、特急はるか23号の車内でも目撃者がいた。その男性は右手首に包帯をした人物で、1号車の入り口近くの座席に座り、同じようにスマホと新聞ばかりを見ていた。
また関西国際空港のターミナル内と出発ロビーでも複数の目撃者がいた。体型、衣服など同じで、その人物は手首に包帯をした若い男性で搭乗口が開くまで熱心にスマホを見ていた。
警察は黒田税理士が関西国際空港発の旅客機で国外に逃げたと断定した。
関西国際空港に問い合わせて、当日の搭乗者名簿を調べると、黒田明良という人物が6月29日15時15分発のフィリピン航空マニラ行A321便に乗ったことが分かった。おそらく彼の妻は、先にマニラにいるものと思われる。二人はハネムーンで行ったマニラのどこかの町に隠れているのだ。被害者から奪った暗号資産はすでにフィリピンの暗号資産取引所で売却している可能性がある。
日本警察はマニラの警察署へ連絡を取り、犯人逮捕の協力を求めた。マニラ警察は日本警察の依頼を受けて早速捜査を開始した。黒田夫妻は、ハネムーンでマニラに来た時、すでにマニラの銀行に口座を持っていたと思われるので、マニラの銀行に問い合わせて、個人の銀行口座の中で最近、暗号資産取引所から多額の振込がなかったかどうか調べてもらった。調査の結果、マニラの支店ではそのような振込がなかったことが分かった。
では黒田という税理士はマニラ以外の離島に移ったのであろうか。離島の小さな銀行で他人名義の口座を作り、現金を振り込んだのかもしれない。フィリピン警察は引き続きほかの離島でも捜査を行った。
1週間してから、犯人逮捕につながる重要な知らせがパラワン島の警察署に入った。パラワン島はフィリピンのルソン島の西に位置する細長い島である。
それはパラワン島のF市のお祭りの記事が新聞に掲載されていたからだった。
その日、マニラ警察署に勤める一人の刑事が久しぶりにパラワン島の実家に帰っていた。ある朝、新聞を見ると祭りの記事と写真が出ていた。写真は大きなカラー写真で祭りの様子が隅々まで映し出されていた。
刑事はふと、その写真の左端に目がいった。そこには町の銀行が背後に写っており、銀行の入り口に、片手に白い包帯を巻いた背の高い日本人らしい若い男性と、その妻と思われる日本人女性が銀行へ入っていく姿が写っていたのだ。周囲はフィリピン人ばかりだったので、肌の色の白いその二人はよく目立った。
刑事の報告を受けて、パラワン島警察は早速その銀行に問い合わせて、その日に銀行へ入店した人物をすべて調べてもらった。
その結果、当日の午後2時頃、多額の現金を引き出した日本人がいたことがわかった。日本円で1億5000万円だった。また7月10日以降にも、たびたび数億円の現金が引き出されていた。二人の名前と住所もあとで判明した。やはり税理士は妻と離島で暮らしていたのだ。
1か月後、マニラ警察から日本警察へ税理士逮捕の知らせが届いた。税理士と妻は身柄を日本へ移され、日本警察によって取り調べを受けた。
パラワン島の銀行口座を調べると、日本を出国してから10日後に、日本円で約20億円の現金が暗号資産取引所から振り込まれていた。やはりビットコインを全額フィリピンの暗号資産取引所で売却したのだ。その金の半分は妻の投資の損失に当てられていた。
取り調べを受けた税理士はこれらの事実をすべて認め、被害者(浅井武史)の資産を着服する目的で今回のJR小浜線電車轢死事件を実行したことを自供した。(完)