2016年2月5日金曜日

エリーゼのために書いた曲

 その日は、霧が深く立ち込めた、冷え冷えとした肌寒い秋の夜だった。
ウイーンの町を流れるドナウ川のほとりに、にぎやかな居酒屋があった。そのお店からは、お客たちの笑い声が、この桟橋にまで聞こえてくる。
 しばらくすると、店からひとりの男が、すっかり酔っ払って出てきた。男は、この店の常連客であったがずいぶん気難しい性格だった。男の職業は作曲家だった。
「ああ、仕事ははかどらないし、耳は悪くなるいっぽうだし、おれの人生とはいったい何なのだろう」
ぼさぼさの髪の毛を掻き分けながら、男は、自分の下宿へと帰りはじめた。
 ところが、桟橋を渡りはじめたとき、気分が悪くなってゲボゲボと路面に吐き出した。
「ああ、毎晩こんな調子じゃ、おれの寿命もそう長くはないな」
 男が、そんな独り言を呟いたとき、霧の向こうに、ひとりの年若い女性が、橋の欄干に寄りかかって、寂しげに立ちすくんでいる姿を見かけたのである。
「こんなに夜更けに、女性がひとりで何をしているんだろう」
 男は、不思議に思いながらも、その女性の方へ近づいていった。
「失礼ですが、何か悩み事でもあるのですか」
 その声に、女性は、一瞬おびえたような表情をしたが、しばらくすると、落ち着いた様子で話はじめた。
「あの、わたし、ある男性に会う為にこの町へやってきたんです。でも、その男性は今、無実の罪で牢獄の中で暮しているのです」
 男は、話を聞いて気の毒に思った。
「そうでしたか。それで、その人の刑期は何年なんですか」
「四年と六か月です」
「長いですね。でも、気を落としてはいけませんよ。きっと真犯人は見つかりますから」
「ええ、わたしもそれを信じています。一日でも早くあの人が、鉄格子の中から出てくることを。そして、以前のような楽しい毎日がやって来ることを願っているのです」
 女性は、そういってから、手提げカバンの中から、何通かの手紙を取り出して男に見せた。
「この手紙は、あの人から受け取ったものです。手紙には、あのときの事件のことが詳細に書かれてあるんです。ご存知でしょう。ストラディバリの偽物を製造、販売して、捕まった事件を」
「ああ、あの事件ですか。ずいぶん評判になりましたね。新聞で読みました。その事件の犯人と間違えられたんですか。ひどいですねえ」
「ほんとうですわ。まったくの冤罪なんですから」
男は、女性の腹立たしげな様子を見ていたが、しばらくしてその女性は話題を変えていった。
「でも、終わったことだから、仕方がありません。いまは、早くあの人が出てくることだけを楽しみにしているのです。あの人ピアノを弾くんですよ。あまりうまくないけど。音楽は大好きなんです。だから、刑期を終えたらすぐに音楽会へ行きたい、そして、音楽会が終わったら、二人してカフェで、暖かいウインナ・コーヒーが飲みたい。そんなことを思っているんです」
 女性の話を聞きながら、男は、自分自身も嬉しい気持ちになってきた。
「そうでしたか。そんなに音楽が好きな人なんですか」
 しばらくして、男は、こんなことを女性にいった。
「わたしは、いまは売れてない作曲家ですが、あなたとその男性のために、素敵なピアノ曲を書いてあげましょう。そして男性が刑期を終えて出てきたら、わたしの音楽会へぜひいらっしゃい。ピアノ曲のタイトルは、あなたの名前を付けてあげましょう。わたしはベートーベンというものです」
 女性は、それを聞いて、いままでの暗い表情が急に明るくなった。
「ほんとうですか。ありがとうございます。あの人も、きっと大喜びするでしょう。わたしの名前は、ルイーゼと申します」
 その夜、その女性と別れた後、男は、翌日、さっそくピアノ曲の作曲に取り掛かった。けれども、昨夜のみ過ぎたせいもあって、なかなか筆が進まなかった。
 しかし、一週間後、努力のかいあって、すばらしい作品が出来上がった。曲自体は、三分ほどの短いものだったが、骨太の彼の作品としては、ずいぶん繊細な曲になった。
 男は、その曲に満足しながら、ウオッカを一杯ひっかけると、出来上がった楽譜の最初のページに、曲のタイトルを書き入れようとした。ところが、男は急に困った顔をした。昨夜の女性の名前が思い出せないのだった。
「弱ったな。昨夜は、ずいぶん酔っていたからなあ」
 男は、ぼさぼさの髪の毛を何度も掻きながら、思い出そうと懸命だった。
「エリーゼだったかな、いや、テレーゼではなかったろうか、いやや、ルイーゼだったような気もする」
 悩みつづけた挙句、男は、楽譜に「エリーゼのために」と、間違った名前を書き入れてしまったのである。その楽譜は、四年と六か月の間、机の引き出しの中に入れられたままとなった。
 さて、年月が過ぎて、男も、世間で知られるような作曲家になっていた。ある日、この町で約束の演奏会が開かれた。勿論、あの女性のために書いた「エリーゼのために」もプログラムに載せていた。
 男は、演奏をはじめる前に、何度も観客席を眺めたが、それらしい人物は見つからなかった。けれども男は、この会場に二人が必ず来ていることを信じて、ピアノを弾き始めたのである。彼が最初に弾いたのは、勿論「エリーゼのために」であった。
 後年、ベートーベン研究家たちが、この曲の創作動機と、その女性との関係をいろいろ調べたが、最後まで真相が分からずじまいになったのは、こういう理由からであった。
 けれども、男はその日の演奏会では、あの夜の事を懐かしそうに思い出しながら、心を込めてピアノを弾いたのである。





(文芸同人誌「青い花第20集」所収)


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