2015年10月9日金曜日

底なし沼の話

 誰も知らない深い山奥の薮に囲まれた小さな原っぱにその沼はあった。回りを高い樹木が生い茂り、昼間でも薄暗く、死んだように静かな場所だった。この沼は、底なし沼と呼ばれてこの山に住む動物たちから恐れられた。
 これまでこの沼の水を飲みにやって来た動物が足を取られてこの沼に引きずり込まれた。そんな恐ろしい沼だったので、動物たちはまったく近づかなかった。
 この沼はずいぶん年を取っていた。だから偏屈で、頑固で融通がきかなかった。しかし、あるときこんなことを考えるようになった。
「俺はこんな淋しい山奥でみんなから恐れられて、ずうーっとひとりで生きてきたが、それは俺の本心ではない。たくさんの生き物の命を奪ったことも、それは本能のせいなのだ。俺には自分の本能にただ従って生きることしか出来ない存在だ。だけどいつまでもそんなことで自分を騙し続けて生きていてもいいものだろうか。このまま動物たちから嫌われ続けて生きていくのも辛いものだ。それに俺は外の世界のことは何も知らない。一度でいいから外の世界を見てみたいものだ」
 ある月が美しい夜のことだった。沼のむこうの水面にわずかに月が写っていた。沼はそっと月に尋ねてみた。
「お月さま。教えてくれよ。山の向こうにはどんな世界があるんだ」
 沼に突然はなしかけられて月はおどろいたが、
「あの山のはるか向こうには、美しいお花畑が広がっています。今そのお花畑は真っ盛りです。太陽が輝く時間には、緑の牧場にたくさんの牛たちと牛飼いが散歩をしています。また緑の芝生には色とりどりの花が咲いています」
 沼は話を聞きながら、その美しい情景を心の中で思いめぐらせてみた。
「ああ、なんとかそんな風景を一度は見たいものだ。それに太陽の光も受けたいものだ。俺はこれまで花さえも見たことがない」
 沼はそれからは毎晩のように月が出ると、外の世界のことを訪ねてみるのが毎日の日課になった。
 ある日、沼のほとりの木の枝に、一羽の小鳥が飛んできて巣を作った。やがて、その巣から、ひなたちの声が聴こえてくるようになった。
「なんて楽しそうな鳴き声だ。ひさしぶりに聴く生き物の声だ」
 沼は、その陽気な鳴き声を毎日聴いていた。ところがある日のこと、巣からひなの一羽が足を滑らせて沼の水面に落ちてきた。沼はさっそくそのひなを沈めようと思った。しかし沼はそのとき思いとどまった。
「同じことを繰り返していては、おれの境遇はいつまでも変わらない」
 そういって、ひなを沈めることをやめたのだ。そこへ親鳥が帰ってきて、ひなを見つけて沼から救い出した。親鳥は沼に感謝した。沼になにかお礼をしたいといった。沼は少し考えてから、
「それじゃ、山の向こうの草原に咲いている花を持ってきてくれないか。おれは花をまだ見たことがない」
と頼んでみた。
 親鳥は、すぐに山の向こうへ飛んでいくと、花を何本が沼のところへ持ってきた。そして沼の水面にその花を投げてやった。沼はその花をじっと見つめてはその美しい色彩と匂いをいつまでもかいでいた。
その後も、親鳥は、エサを取りに行ったついでに花を持って帰った。そして沼の水面にそれを落としてやった。
 あるとき、沼の水面を漂っていた花の種が沼のまわりの草むらに辿り着き、土の中から小さな芽が出てきた。だけど沼はそのことをまだ知らなかった。
 ある年、ひどい嵐がこの土地を襲ったとき、沼の周りの樹木が何本もなぎ倒された。回りの景色はひどいありさまだったが、その後、太陽の日差しがこの沼にも降り注ぐようになった。どす黒い沼の水もいつしか透明度を増してきれいな水に変わっていった。
 沼の回りの花の芽も次第に大きくなり、やがて春の季節になると、色とりどりの色彩の花が沼のまわりに咲き始めた。太陽の日差しと水気をよく含んだこの場所は、やがて美しい花畑になり、遠くからでもこの場所がわかるようになった。
 やがて、この沼のほとりの花畑にはいろんな昆虫や小鳥や動物たちが遊びにやってきた。みんなこの美しい花畑で毎日遊んで帰って行った。そして何年かすると山の向こうからは、人もやってくるようになった。
 みんなこの沼が、かつておそろしい底なし沼であったことなどもう誰も知る者はなかった。





(つるが児童文学会「がるつ第34号」所収)


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