あるとき、一羽のつばめが遠い土地から飛んできて、この桜の木の枝にとまりました。
「季節はもう春ですよ。ほかの桜の木たちは、みんな美しい花を咲かせているのに、どうしてあなただけ花を咲かせないんですか」
桜の木は、眠そうな様子で、
「おれは、ずいぶんと気まぐれな木なんでね。春が来ようが来まいが、そんなことはどうだっていいんだ。花を咲かせたいときだけ咲せますから。それにこんな場所で花を咲かせてもだれも見にきてはくれませんよ」
つばめをそれをきくと、
「あなたはずいぶん変わり者ですね。あなたのような桜の木をわたしは見たことがありません」
「そうかね、別にそんなことおれには関係がないことだよ。どうれ、また昼寝でもするか」
桜の木は、いつもそんなことをいって一輪の花も咲かせずにいました。
ある日のこと、桜の木は、いつものように広い空を見上げていました。
「空っていうのはうらやましいものだ。自分たちの感情を自由に表現できるからな。機嫌がいいときは抜けるような青空だし、機嫌が悪くなると真っ暗になって、ビュービューと風を吹かせ、ゴロゴロと雷を鳴らして大雨を降らせる。そしてまた機嫌が良くなると明るくなって、七色の美しい虹が現れたりする。じつにうらやましいものだ。
ところが、おれたち桜の木はどうだ、気分が悪くても春になったら花を咲かせなくちゃいけない。それに咲く花はいつもお決まりのピンクと決まっている。形も大きさも同じで、うれしくもないのにみんなと一緒に笑っていなくちゃいけない。桜の木にもちゃんと個性があるのに。
それはおれたちばかりじゃない。ほかの花たちだってそうだ。どの花にもちゃんと個性があるのに、それをひとつにしか表現することができないなんて悲しいことだ。車の排気ガスでお腹が痛くなったときは花びらが青色になったり、楽しいときは黄色くなったり、恥ずかしいときは赤くなったりしてもいいじゃないか。松林の向こうに見える海だっていつも表情が違うじゃないか」
桜の木はいつもそんなことをつぶやいていました。
ある年の春の夜、公園に明るい灯がともりました。今日はお花見でした。町の人たちがたくさんやってきました。
たくさんの入場客が、満開の桜の木の下で宴会をしています。みんなお酒を飲んだり、バーベキューをしたり、歌をうたったりとても賑やかです。
明るい提灯の下で、夜遅くまで、賑やかな声がたえません。
でも、公園裏の一本の桜の木だけは、そんな光景を、ただひとりあきれたような顔をして眺めていました。
「毎年、あれだ。桜たちは、みんなバーベキューの匂いや、お酒のぷんぷんする匂いを一晩中かかなくちゃいけないんだ。おれだったら、すぐにでも公園から出て行くのにさ。みんなよくじっと我慢していられるな」
でも、そんなことをいっている桜の木でしたが、自分が立っている木の周りには、人の話し声もしなければ、春になっても根雪が残ったままで、いつもひんやりとしていました。 春になると決まってやってくるつばめも、近頃はぜんぜん来なくなりました。
そんなある日のことです。桜の木はふとこんなことを考えるようになりました。
「だけど、花も咲かさないで、こんなさびしいところでいつまでも生きていてもしかたがないな。やっぱり誰かのために花を咲かせたいものだ」
この桜の木が立っている通りの向かい側に一軒の古いアパートがありました。いままで、誰も住んでいなかったのですが、ある日、ひとりの若い女性が部屋を借りて住み込みました。
昔は恋人もいて、楽しい暮らしをしていましたが、いまはひとりで寂しく暮らしていました。
その女性はいつもパソコンに向かって小説を書いていました。それを自分のブログに載せていました。でも、精彩のない自分の書いたものに少しも満足していませんでした。
桜の木は、そんな様子を眺めているうちに、いつしかこんなことを考えるようになりました。
「この寂しそうな女性のために、めいっぱい美しい花を咲かせてあげたらどうだろう。きっと色彩のある明るい小説が書けないだろうか」
桜の木はそれを試してみることにしました。
ある朝、その女性が部屋の窓を開けたとき、いつもの桜の木にいくつもの美しい花が咲いていました。周りが暗かったせいか、その花だけがひときわ綺麗に見えました。
女性は、それからというものその桜の木を見るのが楽しくなってきました。でも、女性の心を動かしたのは、毎日見ているその桜の木が、季節に関係なく花を咲かせ、日によって色が変わることでした。まるで人間の感情を持っているような木に思えたのです。
それ以来です。その女性の書く小説が明るくなり、内容も面白くなってきたのはー。
ある日、女性は、その桜の花をデジタルカメラで撮影すると、自分のブログのデザインにしました。
そして花の色が変わるたびに画像を変えていきました。その桜の花をデザインしたブログは、次第に読者の間で評判になりました。
ある日、読者の中に、この女性と別れた昔の恋人が遠くの町でこのブログを観ていました。そして小説も読んでいました。作者の名前は仮名で、誰の作だかわかりませんでしたが、その小説の筋は、恋人を失った女性が新たな希望を持って力強く生きて行く様子が明るい気分で書かれていました。追憶の場面で、昔、自分と別れたある女性の思い出とそっくりな出来事が綴られていたのです。
「まさか」と、恋人は思いましたが、「そんなことはない、きっと偶然に違いない」と思い返したりしました。
色彩の変わる桜の花をデザインしたそのブログと、その女性が書く小説は、またたくまにネットの世界で知られるようになりました。
そしていままで誰にも知られなかった公園裏の一本の桜の木も、ネットを通じて全国で一番知られる木になりました。
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