2019年3月18日月曜日

ふしぎな演奏家

 その演奏家はいろんな町に現れた。黒いコートを着て黒い帽子をかぶっていた。だけど楽器らしいものは何一つ持っていなかった。
 あちこちの家の壁に、自分の独奏会のビラを貼り付けて歩いた。ビラを見た人たちはいろいろ噂をした。
「楽器もないのに、どうやって独奏会をやるんだ」
「ポケットにハーモニカを入れているのかな」
「いや、オカリナかもしれない」
「まさか、小型のヴァイオリンかな」
 まだ演奏を聴いたことがない人たちはいろいろ推測した。
 ある日、雨が上がった夜に演奏家の独奏会が公園で開かれた。五十人ほどの観客が集まった。
 でもいくら待っても演奏家の姿が現れない。そのうちに霧が出て来た。公園の中は霧で周囲がまったく見えなくなった。
「いたずらだ。帰ろう」
「そうしよう」
 みんなぶつぶついいながら帰りかけたときだった。霧の中から口笛の音がした。透き通るようないい響きだった。みんなその音に立ち止まった。
「あの演奏家だろうか」
 霧で姿が見えないが、すぐ近くで口笛を吹いているのが分かった。
 曲がおわると、演奏家が口を開いた。
「今夜の独奏会にいらっしゃってどうもありがとうございます。びっくりされましたか。私はもう二十年も昔から口笛でいろんな曲を吹いているのです。いろんな国にも行きました。南米やアフリカのジャングルで吹いたこともあります。そしていろんな国の曲も覚えました。どうかリクエストしてください。どんな曲でも吹いてみせます」
 演奏家がいったので、観客たちは次々にリクエストをした。演歌、歌謡曲、フォークソング、民謡。どれも澄み切った響きで演奏家は吹いてみせた。そのほかにもアフリカの民謡、インドの民謡、東ヨーロッパの民謡、アジアの民謡なども演奏した。
「すばらしい、いままでこんな口笛を聴いたことがない」
 そういってみんなお金を霧の中へ投げ入れた。
 たぶん二時間くらい独奏会は続いた。だれも帰る様子はない。最後の曲を吹き終ったとき、演奏家はいった。
「今夜の独奏会はこれで終わりです、また機会があればお会いしましょう」
 そういってアンコールの曲を吹きはじめた。
 その曲もみんな静かにじっと聴いていた。
 口笛の音はやがて霧の中へ消えて行った。



(オリジナルイラスト)


(未発表童話)






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