ある日、道路脇でレストランの絵を描いていたとき、走って来た自動車にはねられそうになった。空腹でふらふらしていたからだ。倒れたとき頭を打ってそのままま意識を失ってしまった。
画家が意識を取り戻したのは、どこか知らない田舎の病院のベッドの中だった。
「しばらくここで静養することだ。絵を描くことは自由だ」
医者からそういわれて、理由がわからないまま数日間過ごした。
理由が分かったのはすぐあとだった。深夜、眠っていたとき、となりの病室から悲鳴が聞えてきたからだ。
看護師が走って来る音がして、病室の扉が開き物音はしなくなった。
その数日後も別の病室から笑い声がしたり悲鳴が聞えたり、壁をドンドン叩く音で目が覚めた。看護師がそのたびに病室へ入って行った。
「ここは精神病院だ。でも、どうしてこんなところへ入れられたのだろう」
翌日、医者の問診があった。問診を受けながらここへ連れてこられた理由を尋ねてみた。
医者は話してくれた。
「ここへ来る前、意識を失って倒れていた君を通行人が見つけて、救急車で病院へ担ぎ込まれたのだ。そのときは軽い脳振とうだったが、ある夜から行動がおかしいので、ここへ連れてこられた」
でも医者は何の病気なのかいくら尋ねても教えてくれなかった。しかたなく病気が治るまで、この病院で暮らすことになった。
病院からは一歩も外へ出ることは許されなかったので、毎日絵を描いていた。食事が毎日3食出るのがありがたかった。入浴も週に2、3回あった。
描くものはたくさんあった。日課で草むしりをしている患者を描いたり、中庭をただ行ったり来たりしている患者や、石のように草の上にじっと座り込んだまま一日中空想に耽っている患者も描いた。
ある日、スケッチブックを開けたとき驚いた。知らない絵が描いてあるのだ。ずいぶん早描きの無機的な絵で、どこか田舎の田畑を描いた風景だった。
「こんな絵は描いた覚えはない。誰だろう」
患者たちをいろいろ観察したが、絵を趣味にしているような患者は誰もいなかった。ひとりピアノを弾いていたという女性患者がいたが、絵を描く趣味は持っていなかった。
それと気になったのはスリッパがひどく汚れていることだ。小さな木の葉が中に入っていた。奇妙なことなので一日中考え込んでいた。
この病院に来てから2週間が経ってから、外の風景が無性に描きたくなったので医者に相談した。医者は自分の病気がまだ治っていないのでためらっていたが、看護師同伴ならいいことになった。看護師は40歳くらいの男性と30才くらいの女性だった。
ある日、午後の2時間だけ外で写生することを許された。この病院の周囲は木立が多かった。木立の間に林道があり、歩いて行くと広い田畑に出た。すぐ近くに小川が流れていた。その景色を見て不思議に思った。
「どこかで見たことがある景色だ。そうだー」
すぐにスケッチブックを開けてみた。誰かが描いた絵とそっくりだった。描かれた場所も同じだった。空に月が描かれてあるのでこのスケッチは夜に描かれたものだ。あのときも気になっていたが、筆使いがどこか似ているのだ。後ろにいた二人の看護師は画家の当惑した様子を見ながら何か考えているようだった。
画家は不思議なことに驚いていたが、せっかく外で絵を描くことを許されたので、限られた時間の間にたくさんスケッチした。
スケッチが終わって病院へ戻るとき、塀の内と外に大きな木が立っているのに気づいた。身軽な人間なら病院から逃げ出そうと思えば、あの木に登って枝伝いに塀を超えられるのだ。
病室に戻ると、医者にすぐ呼ばれた。診察室へ行くと医者からこんな質問をされた。
「外の景色はどうだった。たくさん絵が描けただろう」
「ええ、病院の中と比べたら、描きたいものがいろいろありました」
「何か変わったことはなかったかね」
「変わったこと」
変な質問をされたので、びっくりしたが、前から気になっていたことを話すことにした。
「実は、外へ出て驚いたんです」
医者にスケッチを見せた。
「この絵とこの絵は構図が同じでしょう。夜と昼の違いだけです。それに筆使いもよく似ています」
医者は絵を観ながら納得したようにいった。
「同じ人物が描いた絵だね」
「え、同じ人物ー」
「君が描いた絵なんだ」
突然そんなことをいわれたので、しばらく言葉が出なかった。
「じゃあ、教えてあげよう」
医者は話した。
「君は夢遊病者なんだ」
「えっ、夢遊病者?」
医者は全部話してくれた。
「脳振とうを起こして前の病院に担ぎ込まれた後、ある深夜から君が病院の廊下を歩き回っている姿を職員が何度も目撃した。問いただしても変な回答ばかりするのだ。でも翌日目を覚ますと何も覚えていない。おそらく頭を打ったとき昔の病気が再発したと思われる。この病院には精神科がないので、この病院に連れて来られらのだ」
画家は突然、そんなことを言われたのでしばらく声も出なかった。
「その病気は治るんですか」
「治ります。この病院で心のケアと薬物投与を続けていれば」
医者は、画家の病室だけドアに鍵がなく、窓には鉄格子もなく、鍵も掛けられていなかったことや、病院から木の枝伝いに塀を越えられることも知っていた。すべて自分の病気の症状を見るためだった。
医者の話が終わって病室に戻ってからも、医者からいわれた病気のことでしばらくは落ち着かなかった。
その夜いろいろ過去のことが浮かんできた。学生の頃のことだった。すっかり忘れていたが、いまの病気の症状と関係があったのだ。
「そういえば、部屋の中でこんなことがたびたびあった」
夜眠ってから、朝起きると、冷蔵庫の中に入れておいた物がなくなっていたのだ。夕べのおかずの残り物や、コンビニで買って来たアイスクリームやジュースなどである。部屋にいるのは自分だけなので、誰も冷蔵庫を開けるわけがないのだ。
「やっぱり病気になる前から、そんな症状があったのだ」
そんなことを思い出してからというもの、スケッチブックを毎日確かめるのが日課になった。
病院での生活はあいかわらず退屈だったので、晴れの日は庭に出て患者たちをスケッチした。雨の日は中庭に咲いている花を取ってきてそれを見ながら静物画を描いた。白色と茶色、青色はよく使うのですぐに足りなくなって看護師に買ってきてもらったりした。
それから2か月が経った。あれ以来、病院の外を描いた風景画はなくなったが、病室のベッド、机、椅子、廊下などを描いた絵はあった。眠っている間に勝手に歩き回って描いたものだ。でも全然記憶がないのだ。薬の効果だろう、日を追うごとにスケッチブックには、無機的な早描きの絵は無くなっていった。
3ヶ月後、症状がぜんぜん出なくなったので、この病院を退院することになった。医者から退院してからも、しばらくは薬の服用は続けるようにといわれた。
病院を出たのは数日後だった。町へ戻ってぼろアパートへ帰った。またいつものように絵描きの仕事がはじまった。絵を描きながら、もしあの病院で治療せずにいたら、きっと空腹のために、窃盗や万引きを無意識に繰り返していたかもしれないのだ。逮捕されても自分にはまったく身に覚えがないので、苦悩に満ちた人生を送ったかも知れない。今の生活はあいかわらず貧しいが、昔からの病気が治って本当によかったと思っている。
(オリジナルイラスト)
(未発表作)
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