2017年1月27日金曜日

バッハの毎日

 ヨハン・セバスチャン・バッハが、ライプチッヒのコレギウム・ムジクムの指揮者を兼任しながら、教会音楽家として作曲活動に打ち込んでいたのは一七六二年のことである。生涯に二度結婚したバッハであるが、子供の数も二十人と多かった。しかし幼時死亡率が高かった昔のことだったので、実際に生き残ったのは十人である。特に、バッハの作曲活動の旺盛だった四十歳から五十歳にかけては、小さな子供たちの面倒をみながらの慌しい毎日だった。
 教会から依頼された数多くの教会カンタータを作曲中、子供たちが部屋に入ってきては仕事のじゃまをするのが常だった。仕事部屋には作曲用のクラヴィアが一台置かれ、バッハは、その前に座って朝から夕方まで仕事をしていたが、隣の部屋から聞こえてくる子供たちのはしゃぎ声と子供用のチェンバロの調子はずれの音にはいつも悩まされた。しかし、もともと社交的で、頑固ではあったが、明るい性格でもあったバッハは、子供たちの騒々しさにも我慢して熱心に作曲に励んでいた。
 バッハにはミサ用の教会カンタータのほかに、世俗カンタータとよばれる作品がある。こちらの方は、かえってにぎやかな環境の方がよいこともあった。当時、ライプチッヒの町ではコーヒーを飲むことが流行った。バッハはこれにヒントを得て、「コーヒーカンタータ」といわれる楽しい音楽を書いた。ほかにも、友人の娘たちの結婚を祝っていくつもの「結婚カンタータ」を書いている。どちらも、大変ヒットしたのであるが、やはりバッハにはバッハらしい厳格な宗教音楽を求める声が多かった。
 バッハも妻のマグダレーナに、「神は、崇高なものを求めておられる」といって、一方で気まじめな音楽を書き続けていた。けれども、厳格で崇高な宗教音楽を書くには、このような環境の中ではやはり無理があった。
 バッハが四十一歳の時に心血を注いで書き上げた最高最大の傑作といわれる「マタイ受難曲」の作曲のときは、とうとう家の中の騒音にたまりかねて、町の静かな教会に足を運んでコツコツと作曲を進めたのである。新約聖書の「マタイ福音書第26、27章」をテキストに、イエス・キリストが、十二使徒の中のひとりユダの裏切りによって十字架を背負い、ゴルゴタの丘で磔(はりつけ)にされ処刑される顛末を描いたこの崇高な宗教音楽は、演奏時間に3時間を要する大曲であり、バッハは御堂のオルガンを弾きながら、キリストと共にその苦しみを味わいながら、毎日精魂を傾けてペンを進めていた。
 ところが、ある日、出来上がった部分を家で手直ししていたとき、数枚楽譜が見当たらなかった。その部分は、十字架に磔にされたイエス・キリストが苦しみの中で息絶える、この曲の重要な部分だった。バッハは慌てふためきながら、部屋中を探しまわった。しかし、いくら探しても見つからなかった。もしやと思い、子供部屋へ入って探してみることにした。子供たちは遊びつかれてみんな昼寝をしていた。バッハは、散らかしほうだいの子供部屋を丹念に調べていった。すると、ゴミ箱の中に、楽譜らしき物が丸めて入っている。取り出してみると、まさしく探していた楽譜であった。
「よかった。よかった。見つかった」
 バッハは、ほっとため息をつくと、楽譜を取り出し、しわを伸ばしてみた。すると楽譜の裏面にはパステルで、ガチョウとアヒルの絵が描かれている。労作の「マタイ受難曲」の楽譜に子供たちの落書きが描かれていたことは後世には伝えられていない。
 そんなこともあってか、バッハは宗教音楽を書くときは、もっぱら教会の中で作曲することにしていた。バッハは美食家であり、同時に大食漢だった。腹八分目で済ますことはなく、いつもお腹いっぱい食べていた。そしてすぐに横になると、大きないびきをかいて朝まで眠る習慣だった。子供の頃からそんな癖だったので、子供のときから肥満児だった。だから仕事は明るいときだけに限られていて、バッハの多くの作品に明るさと健康さがあるのはそのためだった。
 五十歳を過ぎると、バッハの子供たちは成長し、大部分が自分と同じように音楽家になった。バッハ家ではそれが当たり前だったが、彼はそれを喜ぶと同時に、静かになった環境の中で、新しいジャンルである器楽曲とオルガン曲の作曲に打ち込んでいた。
 数年後のある日のことだった。未知の外国の貴族から一通の手紙がバッハ宛に届いた。手紙を開いてみると、ドレスデン駐在ロシア大使カイザーリンク伯と署名がされている。手紙を読み始めたバッハは、その文面があまりに深刻なので思わず息を詰まらせるほどだった。

―拝啓、ヨハン・セバスチャン・バッハ殿

 貴殿の作品は、昔から興味を持って拝聴しております。特に崇高な宗教音楽においては、従来のどんな音楽家の作品よりもすぐれたものと確信しています。あなた様のような才能豊かな方とお知り合いになることができればどんなに幸せなことだろうと思っています。さて、私事、数年前から駐在大使として、この国で公務に励んでおりますが、日に日に公務が多忙を極め、激務のためか最近不眠症がひどくなる一方で、医者通いを続けております。医者の話では、なにか心安らぐ音楽を聴くのが最良の方法であると教えられ、ならば才能ある音楽家にそのような作品を書いてもらい、召し使いの演奏によって疲労した心を癒し安眠することを勧められました。はなはだ不躾なお願いとは思いますが、どうかお引き受け下さるようお願い致します。―

 面識のない、そのロシア大使の手紙を読んだバッハは、気の毒に思うと同時に、自分も昔騒々しい家の中で、幾度か不眠症に悩んだときのことを思い出した。
「よおし、この依頼主のために、心安らぐ音楽を書いてあげよう」
 幸い子供たちはみな、成人になり、多くは自分と同じ音楽家になってよその町で暮らしている。家の中はいつも静かで落ち着いた気分で仕事ができるのだ。
 翌日からバッハは、クラヴィアの前に座って朝早くから作曲をはじめた。ところが意外なことがおこった。ちょうど、夏の頃で、子供たちがみな里帰りにやってきたのだ。半分は子供がいるので、またまた家の中は子供たちの騒々しさで思うように仕事ができなくなった。
 仕方なく町の行きつけの教会で仕事をすることにしたのだが、教会のオルガンは現在取り替え中で使えなかった。しかし、バッハは、騒音と戦いながらも作曲を続け、一ヶ月後にはみごとな作品を完成させたのである。曲名は、「アリアと三十の変奏曲」。チェンバロ又はクラヴィアのための作品で、現在では、「ゴルトベルク変奏曲」と呼ばれている名曲である。バッハは自信に満ちた気持ちで、翌朝、依頼主に浄書楽譜を送った。
 それから、一週間後のことである。依頼主のロシア大使からの手紙が送られてきた。バッハはさっそく手紙を開いて読んでみた。しかし、その文面はバッハが予期していた内容とはまったく違っていた。

―拝啓、ヨハン・セバスチャン・バッハ殿

 数日前、確かに作品を戴きました。どうもありがとうございました。さて、作品を聴かせて頂きまして、大変充実したすばらしい作品であると感じました。規模の大きさといい、品格といい、文句のつけようのないすぐれた音楽であると思います。しかし、私が願っている音楽とはどこか違っているようです。私は、もっと安らかな音楽を期待しておりましたが、全曲は明るく、にぎやかな部分が多く、(静かな部分は最初と最後のアリアの部分だけ)で、とても眠りにつくことが出来ません。この曲では不眠症は治らないような気がします。ほかの音楽家の方、ヘンデルさんか、ヴィヴァルディさんにお願いするつもりでいます。無理をお願いしまして申し訳ありませんでした。では失礼いたします。今後ともあなた様のご活躍とご健康をお祈り致しております。

ードレスデン駐在ロシア大使伯爵 W・Tカイザーリンク拝。

 手紙を読み終わったバッハは、がっくりと肩を落とすと部屋のソファーに寄りかかった。
「そうだった。わたしは勘違いをしていた。依頼主は静かな音楽を求めていたのである。私は子供たちの騒々しさに負けないような曲を書いていたのだ。力作であることは間違いないが、心休まる曲ではなかった」
 バッハは、カイザーリンク伯に申し訳ないことをしたと思うと同時に、早急に別の曲を贈り届けることにしたのである。
 幸い、行きつけの教会のオルガンの取替え工事もおわり、静かな環境の中で落ち着いて仕事ができる。その日の午後、さっそく騒々しい家から抜け出したバッハは、五線紙と筆記用具を携えて、教会へ走っていった。そして、異例ともいえるもうスピードで曲を完成させ、ロシア大使館で激務にさらされている依頼主に曲を贈ったのである。
 その曲の感想についてはバッハのどの伝記を読んでも書かれていないが、その後カイザーリンク伯とバッハは親友になったといわれるから、おそらく依頼主は送られてきた曲に満足したものと思われる。






(自費出版童話集「びんぼうなサンタクロース」所収)





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