2016年1月22日金曜日

アコーディオン物語

 私はもう三十年も前に作られたアコーディオンです。当時の値段で十万円でした。仲間のアコーディオンたちと同じ工場で作られたのです。みんな今頃どんな所で使われているのか、久しぶりに会ってみたいなあとときどき思うことがあります。
 私は仲間のアコーディオンたちと別れてから、ある町の楽器屋さんの陳列棚に置かれました。このお店には、ほかにもピアノやエレクトーン、ドラム、フルート、トランペット、クラリネット、それにギターやマンドリン、ヴァイオリンなども取り扱っていました。
 このお店には2週間くらいいましたが、ある日、一人のお客さんに買われました。その人はサラリーマンで、仕事が休みのときはいつも自分のアパートの中で弾いてくれました。最初の頃はうまく弾けなくて、いらいらしたあげく私の体をバンバンと叩くこともありましたが、日に日に上手くなってからは、そんなことはしなくなりました。
 その人は、昔の歌謡曲やフォークソングなどをよく弾いていました。
 上達してからは、会社の忘年会や新年会に私を連れて行ってくれて、みんなの前で演奏したこともありました。私も美しい音色を響かせたものです。
 ところが、仕事が忙しくなってからは、少しも弾いてくれなくなりました。私はいつも部屋の片隅に置かれるようになりました。
「もう一度、音を出したいなあ」
私はいつも思っていました。
 ある日、アパートに友だちが尋ねて来ました。
「仕事が忙しくて弾かないのだったら、おれに安く譲ってくれないか。家の子供に弾かせたいから」
といいました。
 サラリーマンの人はすぐに承知して、その友人に安い値段で売ってあげました。私はこのアパートを出ることになったのです。
 数日してから、私は新しい家で、その家の子供さんに弾かれるようになりました。
 その子は、大変練習熱心でしたから、毎日弾いてくれました。でも、その子の体には少し大きすぎるのか、蛇腹を開くのにいつも苦労しているようでした。その子の弾く曲は、童謡やアニメソングばかりでしたが、いつも楽しく弾いてくれました。
 そして自分の誕生日には必ず、家族の人の前で弾きました。わたしも大変ご機嫌でした。
 そうやって数年間、私はこの家で暮らしていましたが、その子がピアノ教室へ通うようになってからは、いつもピアノの練習ばかりするようになって、私はまた部屋の隅で暇な毎日を送っていたのです。
 あるとき、お父さんが「取り引き先の会社で楽器をやりたがっている人がいるからこのアコーディオンを譲ってあげよう」といいました。
 その子も賛成したので、私はこの家を出ることになりました。
 次の家の人も、よく私を弾いてくれました。でも、ぜんぜん素人で楽譜も読めないので、最初はずいぶん変な音ばかり出していました。
 仕事が休みの日は、いつも近くの河原へ行って練習していました。でも、何年かしてその人の会社が不景気で倒産してしまうと、その人も失業してしまいました。
 ある日、いつもの河原でアコーディオンを弾いていると、チンドン屋さんがそばを通りかかりました。男の人はチンドン屋さんに雇ってもらことにしました。
 チンドン屋さんの衣装を借りて、一緒にいろんな町を歩くことになりました。冬の日も、夏の日も、あちこちを歩き回りました。
 私は冬の寒さには平気ですが、夏の暑さは苦手なんです。鍵盤の部品には蝋(ろう)が使われているところがあるので、強い日射で溶けてしまうこともあるのです。
 この町では、年に一度全国のチンドン屋さんがあつまって大会をするイベントがありました。たくさんのチンドン屋さんたちの中で、わたしも大きな音を出して歌いました。
「ひょっとして、昔の友だちがいるかもしれない」
 周りを見渡しましたが、あいにく知っているアコーディオンの友だちはいませんでした。でも、外国製の珍しい木製のアコーディオンや、蛇腹がものすごく伸びるバンドネオンを弾いてる人もいて、たくさんの友だちができました。
 一台の木製のアコーディオンは、むかしパリの街に住んでいて、街頭でいつもシャンソンを弾いていたそうです。「パリの空の下」、「アコーディオン弾き」、「パリのお嬢さん」などをいつも弾いていたそうです。
私も話を聞きながら、一度でいいからパリへ行ってみたいなあと思ったりしました。
 賑やかなイベントが終わると、翌日からはいつものようにチンドン屋さんの仕事をしました。毎日楽しく仕事をしていましたが、、あるとき、親方が病気になってからはこのチンドン屋は突然、廃業してしまったのです。
 男の人はまた失業してしまいました。でも、それからすぐに次の仕事を見つけることができました。
 ある日、公園のベンチに座ってアコーディオンを弾いていると、今では珍しい紙芝居のおじいさんが自転車を引いてやってきました。
荷台から、紙芝居の道具を取り出して準備が終わると、拍子木を打ち鳴らしました。公園にいた子供たちが母親に連れられてやってきました。
みんな揃うと、さっそく紙芝居の始まりです。
出し物は今では珍しい、「黄金バット」と「少年タイガー」を観せてくれました。
 おじいさんの流暢なおしゃべりにみんなひきつけられるように聞いています。
 紙芝居が終わると、男の人はおじいさんのそばへ行きました。
「面白かったです。私の伴奏があればもっと稼げますよ」
「そうだなあ。音楽が入っていると、もっと雰囲気がでるな。じゃあ、やってもらおうか」
話がまとまって、次の日から、町々を一緒に歩くことになりました。
男の人がいったように、どの町でもすごい人気でした。
 でも、このおじいさんも、やがて商売が出来なくなって廃業になりました。
 ある日、この町に小さなサーカスがやって来ました。「従業員募集・楽器が弾ける方」の張り紙がテントの柱に付けてありました。
男の人は行ってみました。アコーディオンが弾けるので雇ってもらえました。
 このサーカスは全国のいろんな町へ興行に行きました。フェリーで海峡を渡っているときでした。
海がシケて船酔いに悩まされたことがありました。船室で静かに寝ていたとき、気晴らしに男の人がデッキで、アコーディオンをみんなの前で弾きました。空は青くて、海の眺めもきれいでしたが、私は気分が悪くて、いつものような陽気で明るい音は出ませんでした。
「おかしいな、音が変だぞ、こわれたのかな」
男の人はそんなことをいっていました。
 このサーカスで評判なのは、空中ブランコでした。

  ♪    空にさえずる 鳥の声
   峯(ミネ)より落つる 滝の音
   大波小波 とうとうと
   響き絶やせぬ 海の音 ♪

「美しき天然」の伴奏で、軽業師がブランコに乗って芸をします。私は音を出しながらその芸をいつも下から眺めていました。でも、よくあんな高い所で芸ができるものだなといつも感心していました。
 このサーカスには5年ほどいましたが、そのうち、サーカスが大きくなって、プロの楽団が入るようになってから、アコーディオンの伴奏はいらなくなりました。
「もう君は必要なくなった」
団長にいわれて、男の人はサーカスを辞めることになりました。
 ある日、男の人が公園のベンチでアコーデオンを弾いていると、知らない人に声をかけられました。
その人は、この町のフォークダンスサークルの会長さんでした。
「上手いもんだ。どうだい私のサークルに入ってくれないかい。これまで伴奏してくれた人が高齢で弾けなくなったから、代わりの人を探していたんだ」
「いいですよ。じゃ、やりましょう」
男の人は、今度はフォークダンスサークルの伴奏者になりました。
 ある日の日曜日、サークルの人たちと一緒に、山の高原へ行くことになりました。その日は、全国のフォークダンスサークルの人が集まるお祭りで、みんなと一緒に自動車で出かけていきました。
山道を登りながら、車のトランクに積まれた私は、あまりゆれるので、また気分が悪くなったりしました。
 やがて、美しい高原が見えてきました。色とりどりの美しい花が咲いていて、ぷんぷんといい匂いがしてきました。
行く手に、たくさんの車が見えました。そしてたくさんの人の姿も見えました。みんなチロルの民族衣装を身に着けて、お祭りがはじまるの待っているのです。
 お祭りの会場に到着すると、会長さんが男の人をみんなに紹介しました。
 そのときでした。どこかから声が聞こえてきました。
「おーい、久しぶりだな。おれだよ」
振り向いてみると、一台のアコーディオンでした。昔同じ工場で作られたアコーディオンでした。
「いやあ、このサークルにいたのか。ひさしぶりだな」
 そういっていると、別の方からも声がしました。
「おーい、覚えているかい。おれだよ」
 そのアコーディオンも昔同じ工場で作られた製品でした。どのフォークダンスサークルのアコーディオン伴奏者も年配者ばかりだったので、当時売られていた同じ製品のアコーディオンをみんな使っていたのです。
久しぶりの再会に、私たちはその日一日、楽しく語り合いました。
 このフォークダンスサークルでは、月に何回か、デイサービス施設や、老人ホームなどへ慰問にいったり、夏は、高原で、バーベキュウー大会をやったりしているのです。
 高原のきれいな空気を吸いながら、フォークダンスを踊るのはとても気持ちがいいものです。
 男の人は、高原のきれいな空気を吸いながら、さらに演奏も上手くなり、友達もたくさんできて、今でもそのサークルでアコーディオンを弾いています。







(未発表童話です)


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