2018年4月26日木曜日

桃源郷へ行ける酒

 退職した男の人が、毎日暇だったのでダイコンでも作ろうかと借家の庭を耕していると、コツンと音がした。
「木箱みたいな音だな。どれ」
 掘り出してみると、古い木箱が埋まっていた。
「何が入っているのかな」
取り出して、蓋を開けてみた。
牛乳瓶の容器の中に白い液体が入っており、メモ書きが添えてあった。
読んでみて驚いた。「桃源郷」へ行ける酒と書かれてあった。
「桃源郷?。ユートピアみたいなところだったかな」
 興味があったので、コップに入れてグイッと飲んでみた。
すぐにめまいがして、そのまま眠ってしまった。
 気がつくと、プンプンと花のいい匂いがして、そばで蝶々がたくさん飛んでいた。空は雲ひとつない青空で、太陽がポカポカと照っていた。
 どこからか声が聞こえてきた。女性の声だった。周りを見渡すと、小川のそばで、白い中国の服を着た女性たちが何か話していた。何を言ってるのかわからないが、ひとりひとりの顔に見覚えがある。
「だれだったかなあ、でもよく似てるな」
 思っていると、馬のひづめの音がした。馬には楽師らしい爺さんが乗っていた。肩に胡弓みたいな楽器をぶら下げていた。
 そばまでやって来たとき、
「どこに住んでおられる」
と爺さんは聞いた。
「いえ、気がついたらここで眠っていたんです。ここがどこなのかもわかりません」
「そうか、新参の人だな」
 爺さんはいろいろ教えてくれた。この世界は自分が希望するとおりのものが現れるという。例えば、女性ならば好みの女性ばかりと出会う。果物も自分の好きなものばかりが木になっており、川にも好きな魚ばかりが泳いでいる。住む家も、風景もその人好みのもので満たされている。いままで暮らしていた俗界とはまったく違う世界なのだ。だから嫌な人間も嫌な習慣も規則もないのだ。仕事だってしたくなければしなくていいし、時間に追われることもない。爺さんの話ではこの世界では死というものも希望しなければ永久にやってこない。だから死ぬ心配すらない。
 爺さんに頼んで、楽器を弾いてもらった。ヴァイオリンのように柔らかい音色だったので、自分も弾いてみたくなった。
 演奏を聴き終って爺さんとわかれてから、川のそばの道を山に向かって歩いて行った。不思議なことに、どこまで行っても川のほとりに若い女性がいるのだ。
 道の向こうに何か落ちていた。
「あっ、胡弓だ」
 さっき爺さんがいったように、この世界では自分が希望するものが叶うのだ。
 胡弓を弾いてみた。練習もしてないのにきれいな音が出た。女性たちが耳を傾けて聴いている。中には鼻歌まじりに歌う者もいた。
 弾きながら歩いていくと、果物の木がたくさん植えてあった。ナシ、オレンジ、ミカン、ブドウ、イチジク、桃、サクランボ。ぜんぶ好きな果物だったのでもぎ取って食べた。美味かった。
 川のそばの林道を登って行くと、小屋が建っていた。人が住んでいるみたいだ。
小屋の戸をノックした。
 小屋から40才くらいの男が出て来た。その男は、小屋の中で水墨画を描いていた。
「どこからやってきた」
「川下からだ、歩いてきた」
 男は、山の上に行っていつも絵を描くのだそうだ。
「この山は霧がよく出る。いつもその風景を描いている。山の向こうへは誰もいったことがないが、たいへん美しい所だといわれている」
「へえ、一度行ってみたいな。絵は独学ですか」
「いや、山に住んでる日本画の先生に教えてもらった」
「その人はいまもいるんですか」
「ああ、あの山を三つ越えた山小屋にひとりで住んでいる。いまも元気で暮らしている」
 男に教えてもらって、一度会ってみたいと思った。できれば水墨画を習いたいと思った。
 小屋をあとにすると、さっそく日本画の先生に会いに山を登って行った。ところがすぐに霧が出て来た。帰ろうにも道が分からなくなった。
「困った。霧が晴れるまで野宿だな」
野宿する場所を探していたとき、足を滑らせて谷底へ落ちそうになった。落ちるかと思ったが、身体がふわふわと霧の中に浮かんだ。
「不思議だ、これだったら霧の中を浮かびながら登って行けば楽に山を越えられる」
 そう思って霧の中を歩いて行った。
 やがて三つの山を越えると、山の上に小屋が見えてきた。庭で誰かが絵を描いていた。
「あの人が日本画の先生か」
横山大観によく似た人だった。
 近づいていくと、小屋のすぐそばまでやってきた。
日本画の先生は、地面に板を置いて、そのうえに和紙を広げ、墨をたっぷり含ませた筆で描いていた。
 しばらく垣根のところでのぞき見していたら、
「どこからやってきた」
男の人に気づいて、向こうから声をかけてきた。
「お噂を聞いたもので、絵を習いたくてまいりました」
 日本画の先生は筆を置くと、
「そうか、じゃあ、教えてやろう」
 すんなりと弟子にしてもらった。十日ほどやっかいになって十枚ほど水墨画を描いた。手ほどきを受けたので、みるみる上手くなった。
 日本画の先生からは、こんな話も聞いた。
「わしが俗界にいた頃は満足した絵が描けなかった。静かな山へ行ったり、ずいぶん田舎へも行ったが、やっぱり人間界は煩わしいところじゃ。ほんとうに静かでよく絵が描けるのはやはりここしかない」
 ある晴れた日、先生は遠くに見える山を指さしていった。
「あの山のてっぺんにはりっぱな御殿がある。だれが訪ねてもいいのだ。その御殿から見渡せる風景はまことに美しい。その御殿には、広い浴槽がある。酒が湧いてる温泉じゃ。一日中浸かっても飽きない」
男の人はその話を聞いて、霧が出た日にその御殿へ行くことにした。
 ある霧深い日に、男の人はふわふわと霧の中を登って行った。御殿がある山へ出かけていったのだ。
 何時間もかかってやがて山の上の御殿にやってきた。
「なるほどりっぱな御殿だ。入ってみよう」
 門をくぐって、玄関の扉を開けた。長い廊下があり奥の方へ歩いて行った。壁はすべて金箔で見事な装飾がしてあった。男の人が見惚れていると、廊下の奥から酒の匂いが漂ってきた。
「ああ、日本画の先生がいったように浴槽があるんだな」
男の人はうれしそうに歩いて行った。
 湯けむりの奥に天然の温泉が見えた。だれもいない。酒の匂いがプンプンしている。男の人は湯船に浸かって身体を伸ばした。
「ああ、天国だ。山のてっぺんにこんな場所があるとは知らなかった」
 しばらくしてから驚いた。天井の湯けむりがすーっと消えたかと思うと青空が見えた。まわりに桃の木の林が見えた。よく熟した実が落ちてきそうだった。それだけではない。白い衣装を身に着けた女性たちがこちらを覗き込んでいる。女性たちは桃の実をもぎ取りながら籠に入れ、いくつかを男の人の方へ落としてくれた。桃の実はポチャンと湯船に落ちた。
「どんな味だろう」
 食べてみた。
「すごく美味しい」
 そのとき不思議なことが起きた。背中がむずむずして羽が生えたのだ。羽は自然に動き出した。そして青空に向かって飛び上がった。急激に上昇したので、くらっとめまいがしたが、下を見ると、広大な桃の木の林が広がっていた。
「すごい!」
 どこまでも続く桃の木の林。山並みも美しい。女性たちの背中にも羽が生えており、あちこちを飛んでいる。気分がものすごくいい。そのとき、男の人が住んでいる俗界のことがふと頭に浮かんできた。
 男の人が暮らす俗界は、宇宙の法則ですべてが動いている。これに逆らうことは誰も出来ない。しかしそれが俗界をつまらなくしている。わずかな時間でいいのである。自然に従わない生き方が出来たとき人間は解放され自由になれるのだ。この世界では、なにもかもが法則に従わないように出来ている。だから驚きがあり、喜びを感じるのだ。時間も存在しないから、年を取ることもなく死ぬこともない。常識という観念がないのである。
 そんなことを思いながら、あちこちを見て回った。少しも疲れを感じない。桃の木の林の向こうには大きな湖が広がっていた。水はよく澄んでいて美しい。水の中だって自由に泳げる。魚とも一緒になって泳ぐ。息も苦しくない。お腹が減れば林の果物を食べる。一日中飛んでいたが、夜がやってこない。当たり前だ。ここには自然の法則も時間も存在しないのだ。いつも太陽がかがやく世界なのだ。
 少しの間、昼寝をした。夢は楽しい夢ばかりだった。やがて目覚めた。
 桃の木の下に日本画の先生が座っていた。
「どうじゃ、楽しいところじゃろ」
「ええ、まるで天国です」
 先生はこの桃源郷に住んでいる仙人で、昔はよく俗界へも行ったことがあるそうだ。
「実はな、わしはあんたがここへやって来るのを密かに予期していた」
 先生は、男の人が住んでいる借家に以前暮らしていたのだ。
「あの酒を見つけたあんたは、運のいい人だ」
 先生は借家を出るとき、この桃源郷へ来れる温泉の酒を牛乳瓶に入れて埋めておいたのだ。
「もし、この世界が気に入ったのであれば、俗界に帰ってからこの酒を飲むとよい。俗界とこの世界を自由に行き来することができる」
また先生は、
「この世界は人間の心の中に存在するので、あちこち旅をしてわざわざ探し回る必要もない」
ともいった。
 そういって先生は、酒の入っている小瓶をくれた。
先生の声は次第に消えて行った。気がつくと男の人は、自分の借家の畳の上で眠っていた。そばには酒の入った小瓶が転がっていた。








(未発表童話です)





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