2017年12月27日水曜日

岬のオルゴール館

 いつのことだったか、今ではよく覚えていない。ずいぶん昔のことだ。夢だったのか現実の出来事だったのかさえわからない。
 その頃、ひとりで日本海に面した淋しい海岸を歩いていた。季節は初夏で、風も弱い穏やかな日だった。仕事もしてなかった頃で、なんとなく海の絵が描きたくなって、スケッチブックとパステルを入れたバックを持って電車に乗り、この海岸へやってきた。
 近くに砂浜があり、後ろの松林のところに錆びついたベンチがあったので、そこに座って絵を描きはじめた。二、三時間も描いているうちに、疲れて眠くなってきた。ベンチに寝ころんでウトウトしていたときだった。どこからか風に流されて花のいい匂いがした。
「近くに花畑があるのだろうか」
 起き上がって周りを見渡した。前方は海だし、後ろには広い松林があるだけである。その匂いは松林の中から流れてくるみたいだった。細い小道を見つけたので歩いて行った。道は曲がりくねってどこまでも続いていた。松の木の間から海がときどき見えた。
 しばらく歩いて行くと、小道の向こうが明るくなってきた。松林を出ると、一面に黄色いスイセンの花が咲いていた。まるで花畑だ。すぐ傍は岬だった。 
「あれっ、岬の先端に建物が建っている。洋館だ」
 その建物は岩場の上にぽつんと建っていた。周りに柵があり、中を覗くと小さな庭があった。その庭にも花が咲いていた。門が開いていたので中へ入ってみた。洋館の一階のひとつの窓が開いている。ガラスは割れていた。
「空き家だろうか」
 窓の所へ行って中を覗き込むと、昔のオルゴールがたくさん置いてあった。古いテーブルやソファーなどもあり、みんな古ぼけて埃をかぶっていた。
「どうせ誰も住んでいないのだろう。入ってみるか」
 玄関の扉を押してみた。ギーイという音がして扉が動いた。鍵は掛かっていなかった。中へ入るとずいぶん暗かった。そのときどこからかオルゴールの音が聴こえてきた。
「誰かいるのかな」
 あとで分かったのだが、扉を開けると自動でオルゴールが鳴る仕掛けだった。
 部屋のまわりにはオルゴールがぎっしり置かれている。ドイツ製の2メートルもある大きなものやイタリア製、フランス製、アメリカ製、ロシア製などのオルゴールもあった。
 ドイツ製のオルゴールの蓋をあけて聴いてみることにした。ハンドルを回すと流れてきたのはドイツの民謡だった。
 曲名は知らなかった。どうしたわけか聴いているうちに何度も睡魔に襲われた。それでソファーに腰かけて聴くことにした。やがて眠ってしまった。しばらくしてから目を開けてみると、いままで薄暗くガランとしていた部屋の中がとても明るい。埃をかぶっていたオルゴールがつやつや光って音を鳴らしている。窓の外を見ると驚いた。
 見えるのは海ではない。古いドイツの町並みだった。町の後ろに高い山が見える。岩山で頂上は雪をかぶっている。
「あ、ここは昔のドイツの町だ。時代は18世紀頃かな。レンガ造りの家が立ち並び、道には馬車が走っていたり、地味なドレスを着た婦人たちが歩いている。珈琲店や酒場もある。
 広場では、グリムの「ハーメルンの笛吹き男」の衣装を身に着けた人物が通行人の前で笛を吹いている。そばでアコーディオン弾きが伴奏をしている。ロマンチック街道の中世都市がそこにあるみたいだった。
「ちょっと町を歩いてみるか」
 部屋を出ると、石畳の道を歩いて行った。
 商店街らしくいろんな店があった。家具屋、衣服屋、帽子屋、靴屋、パン屋、酒屋、時計屋、オルゴールの店もあったので覗いてみた。大小さまざまなオルゴールが並んでいた。そのとなりにヴァイオリン工房があり、職人たちが働いていた。ちょうど出来たばかりのヴァイオリンにニスを塗っている職人がいた。ニスの匂いもなんだか心地よい。声を掛けたが、何も答えてくれない。私の姿が見えないのだろうか。
 見ているうちに、町並みをスケッチしたくなった。スケッチブックとパステルを取り出して描いてみた。12色しか持って来なかったのを後悔した。もっとたくさんの色でこの町を描いてみたかった。
 もうすぐ仕上がると思ったとき、周囲がぼんやりした。気がつくと、薄暗いオルゴール館のソファーの上で眠っていた。窓の外は前のように海だった。オルゴールはゼンマイが緩んで音楽は終わっていた。
「不思議な夢だった」
 ドイツ製のオルゴールのとなりにはイタリア製のオルゴールがあった。こちらは箱型の小型のものだった。ネジを巻き蓋を開けてみると、古いイタリアのカンツォーネが流れてきた。聴いているうちにまた眠気をもようして、ウトウトしながらソファーの上で眠ってしまった。
 気がつくと、窓の外はとても明るかった。太陽の光が眩しく照りつけていた。ぼんやりしながら部屋の中を観ると、昔のフィレンツェの町の下宿屋の中だった。窓の外は運河だった。ゴンドラが行き来していた。下宿屋の窓から洗濯物が見えたり、歌を歌っている人もいた。どこからかマンドリンの音色が聴こえてきた。
「二階からだ」
 ドアを開けて階段を登って行った。廊下の突き当りの部屋から聴こえてくる。ドアは開いていた。その部屋の中に人がいた。
 その人はあごヒゲを生やした音楽家らしい男だった。マンドリンを弾きながら五線紙に曲を書いていた。出来た箇所を何度もためしに弾いていた。部屋の床には、書き損じた五線紙があちこちに散らばっていた。
 声をかけてみたが、男は返事をしなかった。やはり私の姿が見えないらしい。
 となりの部屋にオルゴールがあり、奥さんらしい女性が子供にオルゴールを聴かせていた。オルゴールが止まると同時に、周囲がぼんやりした。
 目が覚めてそれも夢だと分かった。部屋の中はもとのように薄暗いオルゴール館の中だった。
 イタリアのオルゴールのとなりには、フランス製の豪華なオルゴールが置かれていた。
デザインがいいので驚いた。さっそくネジを巻いて聴いてみた。フランスの古い民謡だった。そのうち再び睡魔に襲われて、すぐにウトウト眠ってしまった。
 目を覚ましてみると、フランスの金持ちの屋敷だった。ルイ16世の複製画が壁に飾ってある。部屋の中に人がいる。若い女性が椅子に腰かけている。モデルなのだ。その向こうで若い画家が大きな板のキャンバスに絵を描いている。周りからオルゴールの音が聴こえてくる。モデルも暇なもんだから流れてくる音楽を聴いているのだ。絵はクラシックな画風だが、なかなか上手いものだ。
 窓の外は庭園だった。日が照っていて暖かい日だ。庭師が木の剪定(せんてい)をしている。東屋には羽帽子をかぶった二人の女性が腰かけて紅茶を飲んでいる。
 絵の制作はもうすぐ終わるらしい。画家は最後の仕上げをしている。
 眺めながら、私もそんなアトリエの様子をパステルでスケッチした。やがてオルゴールの音が止まった。同時に周囲がぼんやりした。気がつくと薄暗いオルゴール館のソファーで眠っていた。
 次に聴いたのはアメリカ製のオルゴールだった。ラベルに「レジーナ社1890年」と記載されている。
 ディスク・オルゴールで、十枚の大きな金属板で出来た円盤が入っており、好みの円盤を選んでセットすると音楽が聴ける。当時はジューク・ボックスとして使われたオルゴールである。
 ネジを巻いてボタンを押した。軽快なアメリカ民謡が流れた。
周囲がぼんやりした。また音楽を聴いてるうちにウトウト眠ってしまった。
 目が覚めると、そこはアメリカ西部の酒場だった。賑やかでカウボーイたちが酒を飲んでいた。テーブルのあちこちでトランプをやっている男たちがいる。酒場の隅にオルゴールが置かれ、ときどき主人が音楽を流した。
 客席の奥にステージがあった。厚化粧した金髪の女性歌手が現れて、カントリーミュージックを歌っている。カウボーイの帽子をかぶり、ワインレッドのミニドレスはずいぶん派手である。
 誰が入れてくれたのかテーブルの上にお酒が置いてあった。喉が渇いていたのでグイーッと飲んでしまったが、ずいぶん強い酒だったので、すぐに酔っぱらってその場で寝込んでしまった。
 目が覚めると、やはりオルゴール館のソファーで眠っていた。
「やれやれ、どれも不思議な夢ばかりだ」
 アメリカ製のオルゴールのとなりには、ロシア製のオルゴールがあった。こちらは珍しいペーパー式のオルゴールだった。紙に細かい穴が開いており、それを木箱の中に入れて、ハンドルを回すと音楽が流れる仕組みだ。手回し式の小型のものから人間の背丈くらいあるゼンマイで動く大型のものまであった。大型のものを聴いてみた。ネジを巻きボタンを押すとペーパーが動き出して、音が鳴り始めた。音色もいい。
 音楽が流れると周囲がぼんやりしてまた眠ってしまった。
 目が覚めると、そこは 冬のロシアのある屋敷だった。暖炉に火が着いている。ロシア正教会の鐘の音が家の中まで聴こえてくる。
 窓の外を見ると、一台のトロイカが走ってきた。駅馬車だった。私もその駅馬車に乗りたくなった。部屋を出ると、玄関の戸を開けてみたが、あまりの寒さに部屋へ引き返した。
「オーバーはないかな」
 洋服ダンスがそばにあり、中に毛皮のオーバーと毛皮の帽子が入っていた。
「ちょっと借りよう」
 それを着て駅馬車の方へ走っていった。駅馬車はまだ止まっていた。私を乗せると動き出した。駅馬車は走って行った。
 町を抜けると広大な雪の原野を走って行く。空は灰色の雲に覆われて、雪道は硬く凍りついていた。やがて雪が降り始めた。そして見る間に猛吹雪になった。
 あまりの寒さに途中で馬は凍死した。御者も意識がない。馬車はすっかり雪に埋もれてしまった。私も寒さのために死んだようになっていた。
 ふと目が覚めた。そこはロシアの農家だった。私はベッドの中で眠っていた。助けられたのだ。
 となりの部屋からオルゴールの音色が聴こえてきた。そっとベッドを出てドアを開けてみると、この家の住人たちが夕食を済ませて、居間でお茶を飲みながら聴いていた。
オルゴールの曲は、ロシア民謡だった。
「なんて曲だったかな。ああ、黒い瞳だ」
 ロシアの民謡は哀愁があるのでいいなと思った。音楽が終わると周囲がぼんやりした。
 目が覚めると、オルゴール館のソファーに寝ていた。古ぼけたロシアのオルゴールは鳴りやんでいた。なんにも変わらない部屋の中だった。窓の外は海が広がっていた。
「今日はこの洋館の中で不思議な体験をいくつもした。さあ、そろそろ帰ろう。夕日が海の向こうへ沈んでいく」
 その洋館をあとにするとき、パステルで簡単にその洋館をスケッチした。

 長い年月が経った。あの洋館のことが気になって、その年の秋にもう一度その岬へ出かけて行ったが、岬にはどこにでもあるような淋しい灯台がぽつんと建っているだけだった。
 あの洋館はどこかへ消えたのだろうか。やっぱりあれは夢だったのか。でもスケッチブックには、あの洋館のオルゴールを聴きながら観た夢の記録がしっかりとスケッチされていた。あんな不思議な夢をもう一度見たいものだ。












(未発表童話です)





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