村からはずいぶん離れた静かな緑の丘の上に、一軒の小屋が建っていました。その小屋には三年も前からひとり暮らしをしている作曲家がいました。
以前は町で暮らしていましたが、騒音が嫌いで、この静かな田舎へやってきたのです。
町ではアパートに住んでいましたが、赤ん坊の泣き声や自動車の音、工事現場から聞こえる騒音で仕事がはかどらず、ここへやってきたのです。
急いでやってきたので、ずいぶんいろんな物を忘れてきました。でも重たいピアノと五線紙ノートと筆記用具だけは忘れませんでした。この作曲家にとってほかの物はさして重要でもありませんでしたから。
お腹がすけば、山へ行って木の実やキノコを採ってきて食べたり、川へ行って魚を釣ってきたりしました。
作曲家の毎日の生活は、おおよそ次のようなものでした。
まず、朝ごはんを食べてから散歩に出かけます。近くの森へ入り、梢から聞えてくる小鳥の声に耳を傾けます。落ち葉のところで這いずっているカマキリ、クツワムシ、テントウムシの足音、花の蜜を探しているミツバチや熊んバチの羽音、そんな音にも静かに耳を傾け、五線紙ノートに書き込みます。家に帰ってから自分の作品にそれらの音を取り入れるためです。
だけど、この作曲家はこれまでほとんど作曲の注文を受けたことがありません。いつも自分でもこういってます。
「おれは一生、無名の作曲家で終わりそうだ」
そうはいっても、過去にいくつかの仕事を引き受けたことがありました。ひとつは映画音楽の仕事でした。低予算のメルヘン映画で、この作品に音楽を付けたのです。
ロシアの昔話をもとにした映画で、付けた音楽は自分では気にいっていましたが、映像担当者がぜんぜん才能がなく、音楽と映像がまったく合いません。監督とも肌が合わなかったので、出来上がった映画は完全な失敗作に終わりました。
学校から校歌を依頼されたこともありました。でも斬新過ぎるという理由で採用されませんでした。そんなことで一時期仕事を休んでいたのですが、ある日、丘の原っぱの道を散歩していたとき、一人の詩人さんと出会ったのです。
いろんな土地を旅している人で、見るからに風変わりな人でした。でも詩才はあり、この詩人の詩と自分の音楽はどこか共通するところがあったのです。
お互いに付き合いながら、ある日、二人で歌曲を作ってみようかということになりました。詩人さんがこれまで書いていた詩を全部見せてもらって、曲が付けられそうな詩を選びました。
選んだ詩は、次のようなものでした。
第1篇「世間から追い出されて」、第2篇「旅から旅へ」、第3篇「私はどこを彷徨うか」、第4篇「沼のほとりで」、第5篇「夕暮れの道」などです。
ボヘミアン的なところはありますが、静かで落ち着いた詩が多く、これらの詩に曲を付けていきました。
数週間後、出来上がった歌曲をピアノ伴奏で一緒に歌ってみました。二人とも大変満足でした。
知り合いの楽譜出版社に送ってみると、採用されてかなりの数が売れたようでした。
それからも二人で歌曲を作っていきましたが、性格の違いから、共同作業は長くは続きませんでした。
「きみと一緒に仕事をするのは無理だ」
といって別れてしまったのです。
仕方なく作曲家は、別の仕事を探すことにしました。
久しぶりに丘を降りて、町へ行ったとき、ひとりの船乗りに出合いました。居酒屋でお酒を飲んでいた時でした。いろいろと海の暮らしのことを聞きながら、自分も船に乗ってみたくなりました。
「世界の海を旅したら、海をテーマにした音楽が書けそうだ」
決断するとすぐに船に乗ることに決めました。
ある日、その船乗りの紹介で、外国行きの貨物船に乗りました。ずいぶんくたびれた赤サビだらけの老朽船でした。仕事は甲板掃除やペンキ塗りばかりでしたが、非番のときは、デッキで海を見ながら、音楽のイメージを膨らませました。
出港してからすぐに船酔いに悩まされましたが、十日もするとそれにも慣れました。
航海中は、嵐にも出会わずシケた日は一週間程度で済みました。
広い海を毎日見てると、いろんなものに出合います。水平線の向こうにイルカの一群に会ったこともあります。すごいスコールにあって、その雨で、髪の毛を洗ったこともありました。
一番神秘的だったのは真夜中に、くらげの一群にあって、水面が星のようにキラキラと輝いている情景でした。それらの体験を、すべて音楽として表現することに夢中でした。
狭い船室のベットの中で、五線紙を広げて、鉛筆で音符を書き込んでいく作業が航海中続きました。
ときどき船員たちのいびきの音や、調子はずれの歌声に悩まされたりしましたが、それでも航海中に、ほとんどの曲が出来上がっていきました。
目的の国へ着くと、荷物の積み下ろし作業で忙しく、作曲ははかどりませんでしたが、町へ行くと久しぶりに、むこうの珍しい料理を食べたり、映画を観に行ったりしました。
数日間その国でのんびりしてから、帰路につきました。
帰りの航海でも、印象に残った風景などを音楽にまとめて、半年後に船を降りて、丘の家に帰ってきました。
久しぶりに見る丘の景色は、いつものようにのどかで、美しい花々に覆われていました。上着のポケットには、船会社から貰った給料袋も入っており、そのお金で、おいしい食べ物を食べに町へ行ったりしました。
そして、船の中でほとんど出来上がったスコアを、部屋の机の上に広げて、毎日見直していきました。
100ページもあるスコアの最初のページには、交響詩「海の風景」とちゃんと標題が書き込まれています。スコアを修正しながら、
「この作品が見事出来上がったら、町のオーケストラ指揮者に観てもらおう。上手くいけば町の音楽ホールで演奏してもらえるかもしれない」
そんなことを呟きながら作曲家は、今日も部屋の机に向かってペンを動かしています。
(未発表童話です)
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