いままで一度も負けたことがない将棋の名人が、山の温泉へ静養に出かけました。
見晴らしの良い露天風呂に入って、これまでの対戦のことをいろいろと思い出していました。
「今日まで順調に勝ち進んできたが、秋にはとても強い相手と対戦せねばならん」
そんなことを考えているとなんだか心配になり、のんびりと温泉につかっていることが出来なくなりました。
温泉からあがり、庭でひとり将棋を指していると、突然林の中から大きなクマが出てきました。ところが、将棋のことで頭がいっぱいの名人は、まったく気にかけません。
驚かすつもりで出てきたクマだったので、すっかり気が抜けてしまいました。仕方なく林の中へ戻ろうとしたとき、
「おいっ、どこへ行く、ちよっとわしの相手をせんか」
突然そんなことをいわれたクマは、このまま引き返すのもなんだか馬鹿らしい気がしたので、名人のそばへやってくると、ひと勝負しようと思いました。
最初は、名人の手にまったくクマは負けてばかりいましたが、すこしづつ腕を上げていきました。ときどき名人をひやりとさせる手を打つこともありました。
「うむ。おまえはなかなか素質があるな。どうじゃ、五日ほどわしの相手をせんか」
クマは、食べ物をくれるんだったら、相手になってもいいと承知しました。
翌日から、クマと名人は一日中将棋を指していましたが、クマもだんだんと互角に戦えるようになってきました。しまいには6対4ぐらいで勝つこともありました。お礼のおむすびを食べながら、クマは長い時間将棋を指していました。
「相手も、なかなか手ごわくなってきたな。本腰を入れてかからないと負けてしまうかもしれない。でもいい練習になる。これで秋の対戦は勝てるかもしれない」
名人は、心の中で嬉しそうににこにこ笑いながら将棋を指していました。
五日が過ぎて、名人はこの温泉から出て行くことにしました。そして帰るときクマに、
「また、来年の夏にここへやってくるから、また相手になってくれんか」
クマはそれをきいて、
「おむすびくれるんだったら、いいよ」
といって、山の中へ帰っていきました。
秋の対戦では、思ったとおり名人はみごとに勝ったということです。
(文芸同人誌「青い花第23集」所収)
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