2026年1月3日土曜日

(連載推理小説)K氏の失踪事件

      4

 翌朝、警察署では出勤してきた警官が不自然なことに気づいた。廊下のあちこちが濡れており、各課の戸棚の引き出しが少し開いていたのだ。誰かが昨夜無断で侵入した疑いがある。どの課でもそうだった。
「いったい、誰だろう」
 防犯課の刑事も出勤してきた。その中に先日K氏とデパートで格闘した刑事がいた。
 みんなの話を聞いて数日前の出来事を思い出した。
「部屋へ無断で入って来たのは、あのときの透明人間ではないのか」
 刑事は各課の防犯カメラの記録を調べてみた。驚いたことに誰も写っていないのに戸棚の引き出しが勝手に動くのだ。カメラの記録を見ると、交通課に長い時間いたことが分かった。その戸棚には死亡事故の資料が保管されていた。
 刑事は交通課へ行って、最近の死亡事故を調べてみた。死亡事故は3件あった。その中に横断歩道で轢かれた若い薬剤師の死亡事故があった。そのときに見つかった遺留品の中に奇妙なノートがあり、現在、鑑識課で調べていた。
「警察署へ侵入した人物は、そのノートを探しに来たのではないか」
 刑事は、最近デパートやスーパーマーケットで盗難が相次いで起きている事件もその人物の仕業ではないかと疑った。
 盗難にあった品物は、薬と食料品ばかりで、現金や重要な物はなにも盗んではいない。凶悪犯ではないのだ。
 さらに警察では最近、謎の失踪をしている人物の捜査も行っていたので、それとの関連性についても考えてみた。失踪中の人物も薬剤師で、町の薬局に勤めていた。名前と住所も分かっている。
 数日後、鑑識課から報告があった。科学捜査研究所でノートを調べた結果、そのノートには消した指先をもとに戻す薬のことが書かれていたのだ。
 刑事はこう推理した。
「警察署に侵入した人物は、何らかの理由で自分の身体が消えたため、もとに戻す方法を知りたがっている」
 刑事は、この事件を解決する方法はそのノートが決め手だとわかった。
 そんなことなど知らないK氏は、毎日S氏からの手紙を待った。
 1週間してから、K氏の家にS氏からの手紙が届いた。
―Kさん、お久しぶりです。突然のお手紙驚いています。私も元気でやっています。薬科大学の頃はいまでも懐かしく思い出します。私は現在、科学捜査研究所の第一研究室で働いています。Kさんも薬局の勤務の傍ら熱心に薬の開発に取り組まれているとのこと頼もしいことです。また近いうちにお会いしましょう。そのときはお酒でも飲みましょう―。
 K氏は手紙を読んで、興奮が収まらなかった。
「よかった、S氏の働いている部署がわかった」
 K氏はその夜、さっそくノートを探しに出かけた。友人を騙して悪いことをしたと思ったが、この際仕方がなかった。科学捜査研究所の第一研究室を一晩中探した。しかしどうしたことだろう。研究室にはノートはなかった。ノートは数日前に警察署に送り返されていたのだ。
 K氏は失望して研究所から出て行った。 
 数日後、K氏が家の郵便ポストを見ると、差出人不明の小包が入っていた。取り出してみると驚いた。M氏のノートが入っていたのだ。
「誰が送ってくれたのだろう」
 K氏は不可解な出来事に頭が困惑した。でも探していたノートが見つかったので、すぐに部屋に戻って薬を作ることにした。しばらくして玄関のチャイムが鳴った。K氏はノートを持ったまま玄関へ行きドアを開けた。すぐに異変に気づいた。三人の刑事が立っていたのだ。
「家の中を調べさせてもらう」
 刑事が捜査令状をK氏の前に突き出した。
 K氏は驚愕したが、すぐに刑事たちがノートだけが空中に浮かんでいるK氏の周囲を取り囲んだ。すぐに両手を掴まれ、手錠を掛けられた。
 K氏は、刑事に連行されて警察署へ行った。そして取調室がはじまった。
「君が実験によって身体を消し去ったことは分かっている。われわれは消えた身体を元に戻す方法を知っている」
 刑事はそれを証明しようと言った。K氏を浴室に連れて行き、薬がばらまかれたお風呂に入るようにいった。
 数分後、K氏の姿が現れ、元の身体になった。刑事はすぐにK氏に衣服を着せて写真を撮った。K氏は犯罪を認めてこれまでの経緯をすべて話した。
 1か月後、K氏は住居侵入と窃盗の罪で1年6か月の刑を受けた。受刑者となったK氏は悲しんだが、自分の身体が元に戻ったことに安心した。(つづく)














2025年12月1日月曜日

(連載推理小説)K氏の失踪事件

         3

 K氏は、始発の電車で帰って来た。でもやっぱり風邪を引いて、その日はどこへも出かけずに寝込んでしまった。
 昼過ぎに電話が掛かってきた。薬局の店長からだった。電話に出るか迷った。電話は再三かかって来た。仕方なく受話器を取った。
 店長は怒っていた。一週間も休んでおきながら今日も連絡なしで無断欠勤は困ると言った。明日からちゃんと出勤するように言った。
 K氏は返答に困った。どう説明していいのか分からなかった。
「仕方がない、店を辞めよう」
 K氏はそのことを店長に告げた。午後、退職届を書き、封筒に切手を貼って郵便ポストに入れた。
「これで仕事のことは解決した」
 でもK氏は無職になった。これからどうやって暮らしていくか悩んだ。しかし一番の問題は自分の姿を元通りにすることだった。
 数日間K氏はどこにも出かけず、ノートを探し出すことを考え続けた。M氏の部屋にノートはなかった。事故現場にもなかった。病院にもなかった。いったいノートはどこにあるのだろう。そのうち冷蔵庫に入っていた食べ物がすっかりなくなった。お腹が空いては考えることも出来ない。K氏は、スーパーマーケットへ行ったり、デパートへ行ったりして食べ物を調達してきた。
「ノートが見つからなければ自分で薬を作るしかない」
 K氏は試行錯誤しながら自分の身体をもとに戻す薬の実験を繰り返した。いろんな薬を混ぜて試したが容易に薬は出来なかった。
 そのうち薬もなくなってきた。だから町の薬店に行って調達してこなければならなかった。同じ店に行くことは危険だった。気づかれてしまうからだ。だから違う薬店へ足を運んだ。
 あるとき、デパートの薬売り場で、薬を持ち出していたとき人にぶつかった。
 相手は背広を着たがっしりした男性で周囲を見渡していた。空中に薬が浮かんでいるのを見つけてぐいっとそれを掴んだ。
手も一緒に掴まれたので「痛いー」と思わず声を出してしまった。
 背広の男は、姿の見えない相手に驚きながら、手を掴んだままK氏を押し倒した。そして二人はしばらく格闘になった。K氏はなんとか立ち上がって、男のそばを離れた。足元を見ると黒い手帳が落ちていた。それは警察手帳だった。K氏は驚きその場からすぐに立ち去った。
 家に帰ってからも、K氏はしばらく落ち着かなかった。最近、デパートやスーパーマーケットで商品の盗難が相次いで起きていたので警察が警戒を強めていたのだ。
「姿が見えないので捕まることはないが、これからは大変だ」
 そんなときK氏は、あることに気づいた。
「そうだ、ひき逃げ事件の犯人はまだ捕まっていないのだ。警察は現場に残された被害者のノートも調べているはずだ。ノートは警察署にあるのだ」
 でもK氏はためらった。姿が見えないとはいえ、警察署へ捜しにいくことはまったく無謀だった。
 しかし翌日の雨が降る夜、K氏は大胆にも警察署へ捜しに出かけたのである。
 警察署には夜勤勤務の職員しかいなかった。姿が見えないので誰も気づく者はない。音を立てないように各課を回った。
 最初に交通課へ行った。事故のときの資料が揃っているからだ。ノートも保管されているだろう。戸棚の引き出しに最近の死亡事故のファイルがあった。でもノートが見当たらない。ファイルの中にM氏の事故のことが書かれた資料があった。警察ではひき逃げ犯人が故意に被害者をはねたと疑っていた。車はスピードを落とさず、ブレーキを踏んだ形跡がないからだ。
 さらに被害者の上着のポケットに奇妙な薬のことが書いてあるノートも見つけた。ノートは鑑識課で調べていることが分かった。
 K氏はすぐに鑑識課へ行ってみた。鑑識課長の机の上に先日のひき逃げ事件の資料が置いてあった。薬のことが書かれたノートは、現在、科学捜査研究所で調べていることが分かった。
「でも研究所のどの研究室にあるのだろう。すべての部署を調べる訳にもいかない」
 K氏はふと科学捜査研究所の受け取り担当者の名前に見覚えがあった。「S研究員」。それは自分と同じ薬科大学の頃の同級生の名前だった。
「そうか、彼は科学捜査研究所に勤めているのか」
 K氏は妙案を思いついた。S氏に手紙を送り、今どの研究室で働いているかを尋ねることだった。
「手紙を出せば、きっと研究室のことを教えてくれるだろう」
 K氏は警察署から出て行った。家に帰って来ると、懐かしい同級生に手紙を書くことにした。S氏から返信の手紙が来れば助かるのだ。(つづく)

















2025年11月1日土曜日

(連載推理小説)K氏の失踪事件

         2 

 日曜日がやって来た。K氏は、寝床から出ると洗面所の鏡の前に立った。何も写っていなかった。当然だった。
「M氏がやってきたら驚くだろうな」
 時間が経過し昼になった。しかしM氏はやって来ない。昼食を食べてから少し昼寝をした。午後2時になった。でもM氏はまだやって来ない。
 その日は、とうとうM氏はやって来なかった。メールアドレスも電話番号も住所もわからないから連絡も出来なかった。
 翌日の夕方、郵便ハガキが届いた。
 O氏という薬科大学の時の同級生からだった。ハガキはM氏の訃報を知らせるものだった。
 M氏が交通事故で亡くなったのだ。
 当然、友達の死を悲しんだが、同時に深刻な事態に直面した。
「大変だ。もう一冊のノートがないと元の姿に戻れない」
 K氏は考え込んだ。心を落ち着かせてもう一度ハガキを読んでみた。 
 葬儀は明後日の午後、自宅で行われると書いてある。住所も印刷してあった。
「じゃ、明後日葬儀に出かけよう。そしてM氏の部屋に行ってノートを探そう」
 葬儀の日、K氏はM氏の自宅へ行った。たくさん車が来ていた。ハガキを送ってくれたO氏の姿は見当たらなかった。家の中からお経をあげる声が聞こえる。K氏は多くの参列者の間を通り抜けて、祭壇の前に行き、友達の死を悼んだ。姿が見えないので誰も気づかない。焼香をしようと思ったが、焼香が勝手に動いたら誰もが驚くのでそれは止めた。
 すぐに退席して、M氏の部屋を探した。何度も廊下で人にぶつかりそうになりながら、ようやく部屋を見つけた。M氏の部屋は二階だった。ドアを開けて中へ入った。
 机の引き出し、本棚、洋服ダンス、押入れの中を時間を掛けて探した。でもノートは見つからなかった。
「どこへ入れたのだろう」
 思ったとき、あることに気づいた。
「そうだ、M氏は私の家に向かう途中に事故に会ったのだ。だからM氏はノートを持って出たはずだ」
 K氏は、事故のあった現場へ行くことにした。
 一階へ降りると、参列者たちが事故のことを話していた。事故現場はこの町の駅前の横断歩道であることが分かった。ひき逃げ犯人はまだ捕まっていないらしい。M氏はすぐに近くの病院に運ばれたのだ。
 K氏は駅前に行った。ビルがたくさん建ち並んでいる駅前通りは交通量が多い。M氏は横断歩道を渡っていた時、車に轢かれたのだ。K氏はその周辺を探した。
 姿が見えないので周りを気にする必要はなかった。一時間近く捜したがノートは見つからなかった。
「M氏は事故にあった後、すぐに病院へ運ばれたのだ。もしかしてノートは病院にあるのかもしれない」
 K氏はM氏が担ぎ込まれた病院へ行った。受付に行くと、先日運ばれた人身事故の記録がホワイトボードに書いてあった。名前を見るとM氏であることが分かった。
「そうか、この病院に運ばれたあと死亡したのだ」
 K氏はM氏がいた病室へ行った。病室には別の病人が寝ていた。音を立てないように部屋の中を時間をかけて捜し回った。でもノートはみつからなかった。
 K氏は肩を落として病院を出た。
 そのうち夜になった。身体が冷えて来た。K氏は、ふと気づいた。家を出るとき自分が裸であることを忘れていた。昼間は気にならないが、夜になれば当然冷えて来る。
「風邪をひいてしまう。何か身に付けないと」
 近くにデパートがあった。そこで透明のレインコートを盗もうと思った。夜だから気づかれにくいからだ。この際、犯罪を犯しても仕方がなかった。
 二階の洋服売り場へ行き、透明のレインコートを探した。人がたくさんいたけど、姿が見えないのでありがたい。ちょうどいいレインコートがあった。それを持って逃げるとき、人にぶつかりそうになった。中年の女性がレインコートが宙に浮かんでいるのに驚いていた。
 K氏はすぐにデパートから出て行った。
「危なかった」
 K氏は、近くの公園へ行き、ベンチに座った。帰りの電車はもう終わっていた。
 身体が冷えて仕方がない。今夜どうして過ごすか考えていたとき、公園の向こうに銭湯の煙突が見えた。
「よかった。あの銭湯の湯に浸かろう」
 公園から出てすぐに銭湯へ行った。
 銭湯のドアを開けて中へ入った。営業時間が過ぎていたので客はいなかった。
「もうすぐお湯を抜かれる。その間にお風呂に浸かろう」
 お湯はまだ暖かだったので、お店の人が掃除に来るまでK氏はゆっくり浸かった。そのうちお店の人が入って来きて、お湯を抜いた。もう少し浸かっていたかったけど仕方がない。お店の人が掃除をしているそばを通り抜けてお風呂場から出た。出て行くとき新聞紙を何枚か貰ってきた。
 公園に戻ってくると、レインコートの上に新聞紙を広げてベンチで眠ることにした。ふと新聞の記事に目がいった。新聞は今日の夕刊だった。一昨日のひき逃げ事件のことが書いてあり、現在、警察で犯人の行方を追っていると書かれていた。(つづく)












2025年10月2日木曜日

(連載推理小説)K氏の失踪事件

        1

 K氏はどこへ行ったのか。1か月前、彼は突然いなくなった。まるで煙のように消えたのだ。彼がいなくなって一番困ったのは薬局の店長だった。
 薬剤師が一人いなくなったことで、仕事が回らなくなった。早急に新しい薬剤師を募集したが、なかなか見つからなかった。
「彼に何が起こったのだろう」
 店長もほかの薬剤師もその理由が全くわからなかった。
 K氏は年齢が30歳。この薬局で6年勤めていた。研究熱心なところがあり、非番のときは自宅で薬の開発に没頭していた。だから彼の部屋はまるで研究室のようにいろんな薬品が並んでいた。
 あるとき、薬科大学に在籍した頃親しかった同級生のM氏が遊びに来た。思い出話に花を咲かせていた時、ふとM氏はこんなことを言った。
「君は覚えているかい。僕がガン細胞を消滅させる新しい薬を開発していたとき体験したことを」
「覚えてないな。どんなことだっけ」
「ある冬の寒い夜、ストーブの前で粉薬を調合していた時、指先が消えたことだよ」
 同級生の話にK氏は思い出したのだ。
「ああ、あれか。不思議な話しだったな。それで消えた指先はどうなったんだ」
「苦労したけど。再生できたんだ」
 同級生は両手を広げて指先を見せて言った。
「あれは不思議な体験だった。でもずいぶん心配もした。もとに戻らなかったらどうしようかと心配したんだ」
「でもすごいな、そんな体験をしたのなら、どうしてすぐに学会に報告しなかったんだ」
「まだ偶然性のことだったし、理論的にも説明がつかなかったからだ」
「君は、そのとき使った薬のことを覚えているのか」
「ああ、覚えているよ。ちゃんと記録しておいたのだ。君がそれを尋ねると思ってノートを持って来たんだ」
 同級生はそういって上着のポケットから小型のノートを取り出した。
「これにあの時使った薬のことが書いてある。これらの薬を混ぜていたとき指先が消えたのさ」
「その薬でまた試してみたのか」
「いや、あのときの恐怖はもう体験したくないからやっていない」
「じゃ、そのノートをぼくに貸してくれないか。ぼくがその現象を理論的に証明してあげよう。そうすれば学会にも報告が出来るから」 
「それはありがたい。成績優秀だった君ならしっかり証明してくれるだろう」
 M氏は、そのノートをK氏に渡した。
「それで消えた指先をもとに戻す薬のことは書かれてあるのか」
「ああ、もう一冊のノートに書いてある。次の日曜日にまた訪ねるから持ってくるよ」
 M氏が帰ったあと、さっそくK氏はノートを読んでみた。内心ではそんな非現実なことはありえないと思ったが、もしそんな不思議な薬が出来るのなら大いにやり甲斐いがあると思った。
 ノートに書き込んである薬は、ほとんど自分の部屋にそろっている。いくつか足りない薬があるが、それは店にあるものを買ってくればよいのだ。
 翌日、薬局へ行ったとき、それらの薬を買ってきてその夜実験をはじめた。
 しかしまったく上手くいかなかった。いくら記録どおりに試してみたが、指先は消えなかった。薬の濃度が足りないと思い、濃度を強めてみた。しかし結果は同じだった。何度も繰り返していた時ふと気づいた。
「M氏は、ストーブの前で薬を調合していたときに指先が消えたのだ。そうか、部屋の温度が関係してるのだ」
 いま9月で、壁に掛けてある温度計を見ると25℃だった。
 K氏は、エアコンのリモコンを暖房に切り替えて、部屋の温度を30℃に設定した。しかし、薬を触っていても変化はなかった。そこで32℃まで上げた。すると変化があった。指先がぼんやりかすんで見えるのだ。
「驚いた。やっぱりそうか」
 K氏は、室温を35℃まで上げた。するとどうだろう。指先が完全に消えたのだ。
 その夜は興奮が収まらなかった。夢のような出来事がK氏にも起きたのだ。
「日曜日にM氏がやってくる。それまでにこの薬の論文を書いておこう。時間がかかるから店長に電話して1週間休ませてもらおう」
 K氏は、何かに憑りつかれたように1週間の間、寝食を忘れて論文を書いた。そして土曜日の夜、ようやく論文の草稿が完成した。
 K氏は、明日訪ねて来るM氏を驚かせるために、ある途方もないことを思いついた。それは自分の身体をすべて消し去ることだった。つまり透明人間になることだった。その方法も当然考えた。
 お風呂のお湯の温度を35℃に設定し、薬をばらまき、それに浸かればいいのだ。
 その夜、K氏は、それを見事に実行した。(つづく)















2025年9月1日月曜日

(連載推理小説)小浜線電車轢死事件

        8

 これまでの捜査で、犯人は黒田という税理士であることは間違がない。彼は妻の多額の損失を支払うために被害者を殺害し、資産を奪ったのだ。おそらく彼の妻はどこかに身を隠している。警察は逃げた黒田という税理士の行方を追うことにした。
 税理士の住んでいた住居は、綾部市N町の5階建てのマンションだった。管理人の話では6月29日に退去したといった。どこへ移ったのか知らない。担当刑事が管理人に変わったところはなかったかと尋ねると、
「はい、退去する日にいつも乗っていたシルバーメタリックのトヨタカムリが駐車場になく、歩いて出て行きました。大きな旅行鞄を持っていました」
と答えた。
 その話を裏書するように、数日してから犯人の車と思われる重要な情報が警察署に入った。
 事件当日(6月28日)の夜、綾部市から高浜町へ通じる府道1号で、一台の車がガードレールに車体をぶつける事故があった。近くにシカの死骸があり、恐らく車で轢いたものと思われる。車はスリップして運転席側の車体が反対車線のガードレールにぶつかった跡があった。ガードレールにはシルバーメタリック車の塗装が付いていた。その時も雨と風が相当強まっていた。
 担当刑事はその報告を聞いて、その事故を起こしたのが税理士の車だとすると事件当夜、税理士がかなり慌てていたのではないかと考えた。
 税理士は青葉トンネル入り口付近の事件現場で、被害者を線路上に寝かせていたとき、強風でマスクを飛ばされた。税理士はマスクを必死で探していたと思われる。もしもマスクに自分の唾液が付いていたら血液型を調べられる。税理士はそのような精神状態だったため、事故を起こしたのではないか。
「税理士は事故で車が傷ついたためマンションの駐車場に置くことが出来ずにどこかに隠した。逃走するには車が必要である。車を処分していなければその車をまだ使っている可能性がある」
 警察は京都府全域の警察、交番、駐在所に問い合わせて、電車轢死事件発生後の6月28日以降に車体が傷ついたシルバーメタリックのトヨタカムリを調べさせた。綾部市から京都市方面へ向かう国道27号からの情報で、車体が破損している車がその日以降数台目撃されたがいずれも車種と色が違っていた。
 高速道路からの情報ではそのような車は見かけなかったと連絡してきた。
「では、車をどこかへ破棄して、ほかの手段で逃げたのかもしれない」
 もっとも考えられるのは電車である。事件当日の翌日(6月29日)に、綾部駅から乗車した人物について駅に問い合わせた。大きな旅行鞄を持っているのでその日に目撃者がいるのではないかと考えられるからだ。
 数日して、綾部警察署に次のような連絡があった。逃走中の車が、綾部市の伊佐津川河川敷近くの林の中で発見されたのだ。落ち葉や枯れ枝が被せてあり、発見が遅れたのだ。その車は右側車体が酷く破損したシルバーメタリックのトヨタカムリだった。車体ナンバーから黒田税理士の車に間違いなかった。
 翌日、綾部駅から次の報告があった。
 犯人と思われる眼鏡とマスクをした背の高い20代男性が6月29日に、大きな旅行鞄を持って9時56分発JR山陰本線特急きのさき10号京都行のホームに立っていた。右手首に包帯を巻いており、衣服は白のワイシャツ、ブルーのネクタイ、グレーのスーツ、黒の革靴だった。男性はその電車に乗ったと話した。右手首に包帯をしていたのは、事故の時のケガと思われる。
 さらに当日その電車に乗っていた乗客からの目撃情報があった。その乗客の話によると、2号車のドア近くの右側の座席で、盛んにスマホばかり見ている手首に包帯をした眼鏡とマスクをしたスーツ姿の若い男性がいた。10時36分に園部駅を発車してからトイレに行こうと思ってその場所へ歩いて行くと、男性のスマホの画面が見えた。それには福井県高浜町の記事が表示されていた。トンネルの写真が写っていて、その周りを多くの警官が何かを探している写真だった。男性はその記事を食い入るようにいつまでも見ていた。
 あとでニュースを見たので、それは福井県高浜町の電車轢死事件だったと知った。
 犯人と思われる人物を目撃したという報告はほかにもあった。
 同日、11時05分頃、京都駅のホーム内売店近くのベンチに手首に白い包帯をした背の高い眼鏡とマスクをした20代のスーツ姿の男性が腰かけていた。白のワイシャツ、ブルーのネクタイ、グレーのスーツ、黒い革靴で、綾部駅のホームに立っていた男と同じである。男性は11時30分京都駅発の関西国際空港行特急はるか23号が着くまで、始終スマホを見ていたが、ホームの売店に入り、ジュースと新聞を買った。電車が入って来るまで新聞を熱心に読んでいた。ジュースを飲んでいるときマスクを外しており、右耳の下に大きなホクロがあるのが見えた。また、特急はるか23号の車内でも目撃者がいた。その男性は右手首に包帯をした人物で、1号車の入り口近くの座席に座り、同じようにスマホと新聞ばかりを見ていた。
 また関西国際空港のターミナル内と出発ロビーでも複数の目撃者がいた。体型、衣服など同じで、その人物は手首に包帯をした若い男性で搭乗口が開くまで熱心にスマホを見ていた。
 警察は黒田税理士が関西国際空港発の旅客機で国外に逃げたと断定した。
 関西国際空港に問い合わせて、当日の搭乗者名簿を調べると、黒田明良という人物が6月29日15時15分発のフィリピン航空マニラ行A321便に乗ったことが分かった。おそらく彼の妻は、先にマニラにいるものと思われる。二人はハネムーンで行ったマニラのどこかの町に隠れているのだ。被害者から奪った暗号資産はすでにフィリピンの暗号資産取引所で売却している可能性がある。
 日本警察はマニラの警察署へ連絡を取り、犯人逮捕の協力を求めた。マニラ警察は日本警察の依頼を受けて早速捜査を開始した。黒田夫妻は、ハネムーンでマニラに来た時、すでにマニラの銀行に口座を持っていたと思われるので、マニラの銀行に問い合わせて、個人の銀行口座の中で最近、暗号資産取引所から多額の振込がなかったかどうか調べてもらった。調査の結果、マニラの支店ではそのような振込がなかったことが分かった。
 では黒田という税理士はマニラ以外の離島に移ったのであろうか。離島の小さな銀行で他人名義の口座を作り、現金を振り込んだのかもしれない。フィリピン警察は引き続きほかの離島でも捜査を行った。
 1週間してから、犯人逮捕につながる重要な知らせがパラワン島の警察署に入った。パラワン島はフィリピンのルソン島の西に位置する細長い島である。
 それはパラワン島のF市のお祭りの記事が新聞に掲載されていたからだった。
 その日、マニラ警察署に勤める一人の刑事が久しぶりにパラワン島の実家に帰っていた。ある朝、新聞を見ると祭りの記事と写真が出ていた。写真は大きなカラー写真で祭りの様子が隅々まで映し出されていた。
 刑事はふと、その写真の左端に目がいった。そこには町の銀行が背後に写っており、銀行の入り口に、片手に白い包帯を巻いた背の高い日本人らしい若い男性と、その妻と思われる日本人女性が銀行へ入っていく姿が写っていたのだ。周囲はフィリピン人ばかりだったので、肌の色の白いその二人はよく目立った。
 刑事の報告を受けて、パラワン島警察は早速その銀行に問い合わせて、その日に銀行へ入店した人物をすべて調べてもらった。
 その結果、当日の午後2時頃、多額の現金を引き出した日本人がいたことがわかった。日本円で1億5000万円だった。また7月10日以降にも、たびたび数億円の現金が引き出されていた。二人の名前と住所もあとで判明した。やはり税理士は妻と離島で暮らしていたのだ。
 1か月後、マニラ警察から日本警察へ税理士逮捕の知らせが届いた。税理士と妻は身柄を日本へ移され、日本警察によって取り調べを受けた。
 パラワン島の銀行口座を調べると、日本を出国してから10日後に、日本円で約20億円の現金が暗号資産取引所から振り込まれていた。やはりビットコインを全額フィリピンの暗号資産取引所で売却したのだ。その金の半分は妻の投資の損失に当てられていた。
 取り調べを受けた税理士はこれらの事実をすべて認め、被害者(浅井武史)の資産を着服する目的で今回のJR小浜線電車轢死事件を実行したことを自供した。(完)











2025年8月1日金曜日

(連載推理小説)小浜線電車轢死事件

         7

 翌日、第2班の担当刑事は税理士法人「木下会計事務所」へ出かけた。
この会計事務所の職員は女性ばかりで現在4人だった。刑事は警察手帳を取り出して所長を呼んでもらった。所長は60代半ばの白髪頭の男性で、刑事の姿を見ると、
「黒田君のことですね。こちらへどうぞ」
 刑事を事務室の隣の応接間に案内した。
 ソファーに腰かけるとすぐに、
「電話でお話したとおり、黒田君は6月下旬に退職しました。黒田君について何か」
 担当刑事は単刀直入に尋ねた。
「いまJR小浜線電車轢死事件について調べていますが、被害者と関係を持つ人たちの中に黒田さんも含まれているのです。でも彼が犯人というわけではありません」
 所長はそれを聞いて顔色が変わった。
「そうですか、私が分かる事でしたら、何でもお答えしましょう」
 担当刑事は礼を言って早速質問をはじめた。
「事件が発生したのは新聞でもご存じだとおもいますが、6月28日の夜です。お聞きしたいのはその事件があった1か月前からのことです。退職された黒田さんの出勤状況を先ず教えて下さい」
「分かりました」
 所長はそう答えて職員を呼んで、先月の出勤簿を持って来させた。
 担当刑事は手帳を取り出して、出勤簿と照らし始めた。手帳には犯人が目撃された日にちが詳細に書き込まれていた。担当刑事は古い順から照らし始めた。6月5日午後3時頃に、高浜港での目撃情報があり、その日の勤務を確認すると、黒田職員は午後は外勤となっていた。同じく6月8日午後4時頃を調べるとやはり外勤となっている。この日に名田庄村から海釣りにやって来た家族に目撃されたのだ。
 次に高浜海水浴場で目撃された6月12日午後2時頃と6月18日午後4時頃を照らし合わせてみた。これらの日も午後は外勤となっていた。さらに6月21日午後1時30分頃に下見で事件現場の青葉トンネル近くの踏切で目撃された日も午後は外勤となっていた。いずれも平日なので担当刑事は不思議に思った。どうして土日に行かなかったのだろう。しかし所長に尋ねてみて理由が分かった。
「黒田君は綾部のクラシックギターのサークルに所属していて土日は練習で忙しい人でした。それに毎月数回はギターの演奏会に出演していました。小浜市や高浜町のギターサークルの人たちとも親しかったようです。ギターの腕前はなかなかのもので、いつもソロ演奏で客を楽しませていました」
 所長の話を聞いて担当刑事は気づいた。
 被害者(浅井武史)と黒田税理士はギターの演奏会の時に顔見知りになったのではないか。
 それで浅井武史は黒田税理士の職業を知って暗号資産のことを相談したのではないか。
 さらに所長は次のようなことも話した。
「彼は一年ほど前から奥さんのことで悩んでいました。新婚当時は仲がよくて、ハネムーンはマニラに行きました。奥さんは投資家で色んな投資商品を売買して毎年多額の利益をあげていましたが、昨年、ブラジルの複数の金鉱山の倒産で大変な損失を出したそうです。その額は億を超える途方もない金額だったと聞いています。それが原因かと思いますが離婚も考えたそうです。子供はいませんでした。お金には困っていたみたいです。奥さんのことでいつも悩んでいましたが、仕事はきちんとする人でした」
 所長からこの話を聞いて担当刑事は驚いた。「そうだったのか。黒田税理士は妻の投資の損失を解決するために今回の事件を起こしたのだ。これで事件の動機がはっきり分かった」
 考えながら担当刑事は、次に黒田職員の担当業務を尋ねた。
「彼は投資関係の税の確定申告を主にしていました。株式や金、不動産の申告もそうです。最近では暗号資産も担当していました」
 刑事はそれを聞いて目を輝かせた。
「暗号資産!、その仕事は黒田さんひとりが担当されていたんですか」
「そうです。新しい商品ですから、黒田君の得意分野でしたから。いつも机の上には暗号資産の税についての専門書が置いてあり、よく勉強していました」
 所長は黒田職員がどうしてそんな事件に関係しているのか理解が出来ない顔つきだった。
「失礼ですが、黒田さんの履歴書を見せてもらえますか」
「ええ、いま持ってきます」
 所長は職員に頼んで履歴書を持って来させた。履歴書には本人の顔写真もあり、好青年の印象がある。名前は黒田明良。生年月日から現在の年齢は27歳である。出身地は兵庫県の豊岡市で、5年前に兵庫県の大学を卒業し、税理士免許を取得していた。綾部市にやって来たのは4年前で、結婚は2年前だった。意外だったのは資格の欄に税理士免許のほかに気象予報士免許と書かれていたのだ。
「黒田さんは、気象予報士免許をお持ちだったのですね」
「はい、彼は気象についても詳しかったです。中学生の頃、新田次郎の小説「芙蓉の人」(明治時代、はじめて富士山頂に登って気象観測を行った人物を描いた作品)や「孤島」(鳥島で気象観測に従事する測候所職員の物語)などを読んで当時は気象庁に入りたかったと話しました。それで気象予報士免許も大学生の時に取得したと言いました」
 刑事は話を聞いて、事件当日の天気を事前にその税理士が知っていたと推察した。犯罪を行う場合、悪天時を利用した方が都合がよい。黒田という人物は台風のことも事前に予測し、その日を選んだのである。
 刑事は話題を変えて続けて質問した。
「外勤のときは自分の車を使っていましたか」
「はい、事務所に一台車がありますが、自分の車の方が運転しやすいからといっていました。燃料代は毎月渡しました」
「ネクタイとスーツはどんな色のものを好んでいましたか」
「ネクタイはブルー系のものでした。スーツはいつもグレーでした。背が高いのでよく似合ってました」
「黒田さんの血液型をご存じですか」
「昨年、献血バスがこの地区を回って来て、一緒に献血をしました。確か彼はB型でした」
「職務は外勤が多いようですが」
「はい、週に4~5日は外勤ばかりでした。税務署やお得意さんの家を回らないといけませんから」
「ちなみに、黒田さんの右耳の下にホクロがありますか」
「はい、よくご存じで。大きなホクロがあります。本人はホクロを気にしていたので、いつも大きめのマスクを掛けていました」
「わかりました。今日はありがとうございました。またお聞きすることがあるかもしれませんが、そのときはどうぞよろしく」
 担当刑事は事務所を出た。すぐに小浜警察署へ戻ると今日の聞き込みの内容を捜査課長に報告した。(つづく)
















2025年7月1日火曜日

(連載推理小説)小浜線電車轢死事件

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 事件発生から3週間が経過した7月19日に、捜査本部では、第1班と第2班の報告をまとめた。
 先ず、今回の電車轢死事件の動機は、被害者(浅井武史)が投資(暗号資産)で利益を出した金を着服する目的で行われた。犯人ははじめ金融機関の人間(銀行員、証券マンなど)が考えられたが、第2班の捜査で、税理士の可能性が高い。その理由として、被害者は暗号資産で多額の利益を出していたが、海外取引所の閉鎖によって確定申告に必要なデータが取り出せなくなり悩んでいた。これを解決するために税理士を探して相談した。
 その税理士は、ビットコインを着服するため被害者を殺害する機会をうかがっており、事件発生の1か月前から度々高浜港、高浜海水浴場、事件現場のJR小浜線青葉トンネル入り口付近へ下見に行っていた。
 その税理士は京都ナンバーのトヨタカムリの所有者で、年齢は20代、ブルーのネクタイ、グレーのスーツを常に着用し、眼鏡を掛け、マスクをしていた。
 その税理士は、事件発生の夜以前にも居酒屋(ウェーブ)で被害者と会っており、被害者から暗号資産の情報(利益額)などを聞いて知っていた。
 その税理士は、事件当日の夜に被害者を誘って高浜町の居酒屋で会い、泥酔した被害者を車に乗せ、青葉トンネン入り口付近の線路上に連れて行った。おそらく居酒屋で被害者のグラスに睡眠薬を混入させたと考えられる。被害者を殺害後、高浜町の被害者の住んでいた白木アパートへ行き、被害者が持っていたアパートの部屋の鍵で侵入し、パソコン、スマホ、預金通帳、印鑑などを奪って逃走した。
 警察はこのようにこれまでの捜査をまとめた。
 第1班と第2班の担当刑事はこの中で、犯人がどうしてパソコンまで持ち出したのか不思議に思った。それは被害者が暗号資産を既に現金に変えていると思ったからだ。しかし、ギターサークル(あじさい)の高木氏の話を思い出したとき、ふとこんな考えが浮かんだ。
「浅井武史は、まだビットコインを売却していないのではないか。別の海外取引所に移した200ビットコインはそのまま残っている」
 そう考えると疑問が解消できるのだ。
「その税理士は、パソコンを持ち出してどこかでビットコインを売却することを考えている」
 さらに担当刑事は思った。その税理士がどうして殺害までして、ビットコインを奪おうとしたのかその動機を調べなければいけない。
 さらにもう一つの疑問がある。それは犯人が被害者を殺害するために頻繁に高浜港や高浜海水浴場へ下見に行き、水死させるつもりであったにもかかわらず、どうして電車による轢死を実行したのかである。担当刑事はこれらの疑問を早く突き止めたいと思った。
 捜査会議が終わってから数日後に、住民からの新たな情報が小浜警察署に寄せられた。
 その情報は事件発生の20日前、名田庄村から高浜港へ海釣りに来ていた子供連れの家族からの目撃情報だった。高浜港の船着き場でシルバーメタリックのトヨタカムリから降りてきた背の高いスーツ姿の20代の男性を見たというのだ。20日前といえば6月8日である。
 父親と母親の話によると、午後4時頃、背の高い(身長が180㎝くらい)の男性が車から降りてきた。グレーのスーツ、青色のネクタイをしており、眼鏡を掛けていた。その時はマスクを外して海をじっと眺めていた。小学生の女の子が、その男性の右の耳の下に大きなホクロがあるのを記憶していた。男性は20分くらい船着き場をうろついていた。
その家族は今回の事件を新聞で読んで知っており、情報を提供してくれたのだ。これで犯人と思われる人物の特徴が更に詳しく分かった。
 ではどうして犯人は事件当日の夜、電車による轢死を実行したのか。頻繁に下見にやって来た高浜港や高浜海水浴場ではいけなかったのかについて調べることにした。
 担当刑事は事件当日の天候を調べるために、京都地方気象台に問い合わせてみた。事件当日、天気予報を担当した予報官に話を聞いてみた。予報官は次のように説明した。
「あの日(6月28日)は、台風第7号が紀伊半島から強い勢力を維持したまま北上してきました。この台風はいわゆる迷走台風で、本州に近づく頃から進路と速度が頻繁に変わるようになりました。奈良県北部からはじめ進路を北東に変えて北陸地方へ向かうコースを予想しましたが、京都府南部から進路を北に向けて速度を上げて若狭湾を通過して行きました。台風本体の雨雲がこれらの地域で大量に雨を降らせました。  
 福井県西部の小浜市、高浜町では時間雨量で100㎜の雨を降らせた場所がありました。これは滝のような雨で視界も非常に悪いです。問題は、台風が予想よりも早く抜けため、午後9時過ぎには、北寄りの吹き返しの風に変わりました。ですから海上は高波で海には近づけません」
 予報官の話を聞いて、担当刑事はこう推理した。
「そうか、犯人は、最初、高浜港か高浜海水浴場で被害者を水死させるつもりだったが、台風が予想に反して進路を北に向け、速度を上げて若狭湾を抜けたために、北寄りの吹き返しの風で波が高く海に近づけなかった。それで電車による轢死を実行したのだ」
 担当刑事は、犯人が事前に当日の天候を十分に調べていることから、気象に詳しい人物だと考えた。今回の台風第7号は、進路予想が非常に難しく、犯人も当日の台風の進路を予測出来なかったのだ。
 数日後、遺留品を調べていた鑑識課から次のことが報告された。
 轢死現場近くの田んぼの中に落ちていた白いマスクからわずかな唾液が検出されたのである。その唾液から血液型が判明した。血液型はB型であることがわかった。被害者浅井武史の血液型はA型であり、マスクを付けていたのは犯人のものと推定できる。マスクは新しく汚れはなかった。
「その税理士を調べよう」
 担当刑事は、綾部市と福知山市に事務所を置く税理士事務所を一つずつ調べることにした。
 その結果、税理士事務所があるのは、綾部市で4店、福知山市で6店だった。年配者が多く、20代の職員はすべて女性ばかりだった。その中で綾部市の会計事務所に一人20代の男性の税理士が働いていることがわかった。「木下会計事務所」という税理士事務所で、電話による聞き込みで、その男性税理士は黒田という名前で、この事務所で先月まで働いていたと話した。しかし現在は連絡がとれないといった。だが、第2班の刑事がこの税理士事務所を調べた結果、今回の電車轢死事件の犯人が特定できたのである。(つづく)