2025年7月1日火曜日

(連載推理小説)小浜線電車轢死事件

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 事件発生から3週間が経過した7月19日に、捜査本部では、第1班と第2班の報告をまとめた。
 先ず、今回の電車轢死事件の動機は、被害者(浅井武史)が投資(暗号資産)で利益を出した金を着服する目的で行われた。犯人ははじめ金融機関の人間(銀行員、証券マンなど)が考えられたが、第2班の捜査で、税理士の可能性が高い。その理由として、被害者は暗号資産で多額の利益を出していたが、海外取引所の閉鎖によって確定申告に必要なデータが取り出せなくなり悩んでいた。これを解決するために税理士を探して相談した。
 その税理士は、ビットコインを着服するため被害者を殺害する機会をうかがっており、事件発生の1か月前から度々高浜港、高浜海水浴場、事件現場のJR小浜線青葉トンネル入り口付近へ下見に行っていた。
 その税理士は京都ナンバーのトヨタカムリの所有者で、年齢は20代、ブルーのネクタイ、グレーのスーツを常に着用し、眼鏡を掛け、マスクをしていた。
 その税理士は、事件発生の夜以前にも居酒屋(ウェーブ)で被害者と会っており、被害者から暗号資産の情報(利益額)などを聞いて知っていた。
 その税理士は、事件当日の夜に被害者を誘って高浜町の居酒屋で会い、泥酔した被害者を車に乗せ、青葉トンネン入り口付近の線路上に連れて行った。おそらく居酒屋で被害者のグラスに睡眠薬を混入させたと考えられる。被害者を殺害後、高浜町の被害者の住んでいた白木アパートへ行き、被害者が持っていたアパートの部屋の鍵で侵入し、パソコン、スマホ、預金通帳、印鑑などを奪って逃走した。
 警察はこのようにこれまでの捜査をまとめた。
 第1班と第2班の担当刑事はこの中で、犯人がどうしてパソコンまで持ち出したのか不思議に思った。それは被害者が暗号資産を既に現金に変えていると思ったからだ。しかし、ギターサークル(あじさい)の高木氏の話を思い出したとき、ふとこんな考えが浮かんだ。
「浅井武史は、まだビットコインを売却していないのではないか。別の海外取引所に移した200ビットコインはそのまま残っている」
 そう考えると疑問が解消できるのだ。
「その税理士は、パソコンを持ち出してどこかでビットコインを売却することを考えている」
 さらに担当刑事は思った。その税理士がどうして殺害までして、ビットコインを奪おうとしたのかその動機を調べなければいけない。
 さらにもう一つの疑問がある。それは犯人が被害者を殺害するために頻繁に高浜港や高浜海水浴場へ下見に行き、水死させるつもりであったにもかかわらず、どうして電車による轢死を実行したのかである。担当刑事はこれらの疑問を早く突き止めたいと思った。
 捜査会議が終わってから数日後に、住民からの新たな情報が小浜警察署に寄せられた。
 その情報は事件発生の20日前、名田庄村から高浜港へ海釣りに来ていた子供連れの家族からの目撃情報だった。高浜港の船着き場でシルバーメタリックのトヨタカムリから降りてきた背の高いスーツ姿の20代の男性を見たというのだ。20日前といえば6月8日である。
 父親と母親の話によると、午後4時頃、背の高い(身長が180㎝くらい)の男性が車から降りてきた。グレーのスーツ、青色のネクタイをしており、眼鏡を掛けていた。その時はマスクを外して海をじっと眺めていた。小学生の女の子が、その男性の右の耳の下に大きなホクロがあるのを記憶していた。男性は20分くらい船着き場をうろついていた。
その家族は今回の事件を新聞で読んで知っており、情報を提供してくれたのだ。これで犯人と思われる人物の特徴が更に詳しく分かった。
 ではどうして犯人は事件当日の夜、電車による轢死を実行したのか。頻繁に下見にやって来た高浜港や高浜海水浴場ではいけなかったのかについて調べることにした。
 担当刑事は事件当日の天候を調べるために、京都地方気象台に問い合わせてみた。事件当日、天気予報を担当した予報官に話を聞いてみた。予報官は次のように説明した。
「あの日(6月28日)は、台風第7号が紀伊半島から強い勢力を維持したまま北上してきました。この台風はいわゆる迷走台風で、本州に近づく頃から進路と速度が頻繁に変わるようになりました。奈良県北部からはじめ進路を北東に変えて北陸地方へ向かうコースを予想しましたが、京都府南部から進路を北に向けて速度を上げて若狭湾を通過して行きました。台風本体の雨雲がこれらの地域で大量に雨を降らせました。  
 福井県西部の小浜市、高浜町では時間雨量で100㎜の雨を降らせた場所がありました。これは滝のような雨で視界も非常に悪いです。問題は、台風が予想よりも早く抜けため、午後9時過ぎには、北寄りの吹き返しの風に変わりました。ですから海上は高波で海には近づけません」
 予報官の話を聞いて、担当刑事はこう推理した。
「そうか、犯人は、最初、高浜港か高浜海水浴場で被害者を水死させるつもりだったが、台風が予想に反して進路を北に向け、速度を上げて若狭湾を抜けたために、北寄りの吹き返しの風で波が高く海に近づけなかった。それで電車による轢死を実行したのだ」
 担当刑事は、犯人が事前に当日の天候を十分に調べていることから、気象に詳しい人物だと考えた。今回の台風第7号は、進路予想が非常に難しく、犯人も当日の台風の進路を予測出来なかったのだ。
 数日後、遺留品を調べていた鑑識課から次のことが報告された。
 轢死現場近くの田んぼの中に落ちていた白いマスクからわずかな唾液が検出されたのである。その唾液から血液型が判明した。血液型はB型であることがわかった。被害者浅井武史の血液型はA型であり、マスクを付けていたのは犯人のものと推定できる。マスクは新しく汚れはなかった。
「その税理士を調べよう」
 担当刑事は、綾部市と福知山市に事務所を置く税理士事務所を一つずつ調べることにした。
 その結果、税理士事務所があるのは、綾部市で4店、福知山市で6店だった。年配者が多く、20代の職員はすべて女性ばかりだった。その中で綾部市の会計事務所に一人20代の男性の税理士が働いていることがわかった。「木下会計事務所」という税理士事務所で、電話による聞き込みで、その男性税理士は黒田という名前で、この事務所で先月まで働いていたと話した。しかし現在は連絡がとれないといった。だが、第2班の刑事がこの税理士事務所を調べた結果、今回の電車轢死事件の犯人が特定できたのである。(つづく)












2025年6月1日日曜日

(連載推理小説)小浜線電車轢死事件

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 1週間後、第2班の担当刑事は、ギターサークル「あじさい」の会員の中で被害者と親しかった者を調べていた。このギターサークルが結成されたのは12年前で月に一、二度演奏会を行っている。また京都府のギターサークルとも交流があり、これまでにもたびたび合同演奏会を行っている。
「あじさい」の会員は全部で11人だった。男性8人、女性3人である。年齢は20代から70代と幅広い。
 殺害された浅井武史がこのサークルに入会したのは5年前である。学生の頃からギターを弾いていたが、クラシックギターははじめてだった。サークルでは主に伴奏を担当していた。
 担当刑事は先ず代表者に電話をして、浅井武史と親しかった会員を尋ねてみた。それによると、同じ年に入会した高木という会員がいることが分かった。二人は小学校からの幼馴染で、浅井武史のことをよく知っていると言った。
 担当刑事は、その高木という会員の自宅を訪ねた。
「亡くなられた浅井武史さんのことを調べています。ご協力ください」
 高木という会員は、
「浅井君のことは新聞で読みました。大変驚いています。尋ねたいこととは何ですか」
 担当刑事は次のような質問をした。
「浅井さんは、昔から株式などの投資をしていたそうですが、ご存じですか」
 高木氏は答えた。
「ええ、何度か本人から聞いています。彼は最近、予想もしなかった利益が出ていると話しました」
「私は投資をやらないのでわかりませんが、株式などでそんな莫大な利益が出るのでしょうか」
「株式では無理です。それに二十代の人がそんな資金はありませんから」
「ではどのような投資で儲けたのでしょう」
 高木氏は教えてくれた。
「暗号資産です。以前は仮想通貨って一般的に呼ばれていました」
「暗号資産―?私は投資の知識がないのでよくわかりません。どんな商品なんですか」
 高木氏は詳しく話してくれた。
「暗号資産は2008年頃に作られたインターネット上で取引されるデジタル通貨のことです。国や中央銀行などの管理者が存在せず、個人間で自由に取引ができるブロックチェーン技術を使った新しい通貨です。代表的なものとしてビットコインがあります。当時の価格は数千円程度でしたが、現在は1000万円を超えています。将来的にはもっと値上がりすると言われています。浅井君はそれを期待して買ったのです」
 高木氏は続けた。
「彼の話では、当時1ビットコイン6千円くらいの価格だったそうです。将来的には現金は無くなってデジタル通貨が流通するようになるからいま買っておけば大儲けが出来ると言ってました」
 担当刑事は、その話を聞いていままで被害者がどのような投資で多額の利益を出したのかはっきりと分かった。
「亡くなった浅井武史さんは、どの程度の利益を出していたのでしょうか」
 高木氏は教えてくれた。
「彼の話では、ビットコインの価格が安かった時に、確か貯金をほとんど取り崩して、200ビットコインを買ったそうです。それが現在では1600倍まで値上がりして20億円の利益が出ていると言いました」
「20億円―。それだったら、大変機嫌もよかったでしょう」
 しかし高木氏は首を振って、
「彼は億万長者になれて喜んでいました。でも、なぜか心配そうでした」
「何を悩んでいたのですか」
「彼は海外の取引所を使っていましたが、今年の春にその取引所がハッキング被害に遭いました。幸い、数日前に取引手数料の安い別の海外取引所にすべてのビットコインを移したので資産を失うことはありませんでした。しかし被害にあった取引所に記録されていたデータが取り出せなくなり、来年の確定申告が出来ないと非常に困っていました。被害にあったその取引所はその後廃止されました。そんな理由で彼は確定申告の相談に乗ってくれる税理士を探していました」
「税理士ですか」
「はい、いま売却すれば20億円の利益が出るが、確定申告をしないと脱税になってしまう。税務署に尋ねようと思ったそうですが、それでは多額の税金を納めなければいけない。暗号資産は雑所得扱いなので最大55%の税金が掛かるので、税理士の知識を借りてなんとか課税額を少なくしたいと言っていました。しかしその話を聞いて私は少し疑問に思いました。いくら税理士に相談しても課税される額は変えられないのです。浅井君は投資には長けていましたが、税金についてはまったく無知なところがありました。彼は私の顔を見るたびに親しい税理士を知っていたら紹介してくれと言いました」
 担当刑事は居酒屋「ウェーブ」の店員から聞いた話を思い出した。
 事件発生の前、「ウェーブ」で被害者と一緒に来店した若いサラリーマン風の男のことである。警察では、はじめその男は銀行員か証券マンと考えていたが、この話を聞いてそれを訂正した。その人物は税理士で、被害者と来年の確定申告の打ち合わせをしていたのだ。また、アパートの住民からの聞き込みで、何度か被害者の部屋にやってきたのもその人物ではないか。アパートの傍の路上にシルバーメタリックの乗用車が駐車しているのを見た住民もいたからである。
 そうだとすると、その人物と被害者は数か月前から親しい間柄にあった。その人物がもし税理士だったら被害者が利益を出した金を着服する計画を立てていたと考えられる。
担当刑事は捜査の焦点をその税理士に当てることにした。(つづく)











2025年5月2日金曜日

(連載推理小説)小浜線電車轢死事件

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 第1班の担当刑事は、京都運輸支局から回答があった二つの市(綾部市、福知山市)のシルバーメタリックのトヨタカムリの所有を調べていた。
 綾部市、福知山市で、20代でシルバーメタリックのトヨタカムリの所有者は24人である。職業別では、会社員15人、自営業6人、公務員2人、無職1人だった。
 第2班の聞き込みから、居酒屋(ウェーブ)で被害者(浅井武史)と一緒に飲んでいた人物が金融機関に従事している者と考えられるので、先ず銀行員、信用金庫職員、農協職員、証券会社社員を重点的に調査することにした。
 銀行員(A氏)について調べると、京都銀行福知山支店勤務の男性で年齢は25歳。独身者。この行員について聞き込みを行った結果、事件当日の夜は自宅に帰っていることが分かった。しかし当日の夜に在宅していたのかは不明。支店には3年前に採用されている。
 信用金庫職員(B氏)はほくと信用金庫綾部支店勤務で年齢28歳。既婚者の男性で事件当日は家族で在宅。町内会の役員をしており、当日午後7時30分から9時00分まで役員会に出席していた。
 農協職員(C氏)は、農業協同組合JAバンク福知山支店に勤務。27歳。既婚者。事件当日は研修のため東京に出張中。研修期間は6月26日から7月2日まで。研修センターに問い合わせて確認済み。当日は自宅には家族のみ在宅。
 証券会社社員(D氏)は、山川証券綾部支店勤務。年齢24歳。独身者。事件当日は、午後8時30分まで証券会社で仕事をしており、会社にて確認済み。支店には2年前に採用されている。以上のことが数日後に分かった。
 担当刑事は、この中で事件当日、研修のため東京へ出張中だった農協職員(C氏)を除いた3人について事件発生の6月28日以前の行動を詳細に調査した。
 先ず、高浜町でシルバーメタリックの乗用車に乗った人物が目撃された日時を照らし合わせた。最も多く目撃されているのは高浜港と高浜海水浴場である。その日時に3人がどこにいたのか調べてみた。
 事件発生以前の6月5日午後3時頃と、6月8日午後4時頃に犯人と思われる人物が高浜港で住民に目撃されている。調査の結果、6月5日と6月8日の午後に職場に居なかった者は銀行員1人だけだった。他の2人は職場で仕事をしていることが確認された。職場にいなかった銀行員は当日外勤で綾部市内の得意先の会社を回っていたらしい。綾部市から高浜町までは、府道1号を使えば30分で行ける距離である。外勤中に行けないこともない。担当刑事はそれを疑った。しかし同じく高浜海水浴場で目撃された6月12日午後2時頃と、6月18日午後4時頃について照らし合わせてみると、目撃された時刻は3人とも職場で勤務中であることが確認された。
 また事件現場の青葉トンネルの踏切のそばの空き地で目撃された1週間前の6月21日午後1時30分頃を照らし合わせた結果、やはり3人とも職場にいたことが分かった。
 6月5日と6月8日の午後に外勤をしていた銀行員については、数日後にその時間帯はT会社を訪問していることがあとで確認された。
 担当刑事はこれらの調査によって研修中の農協職員を含めた4人には全員アリバイがあることがわかった。
 では犯人と思われる人物はほかの人間であろうか。そんなとき担当刑事はふと被害者には借金があり、事件当日、居酒屋「ウェーブ」で一緒に飲んでいたのは消費者金融の社員だったかもしれないと考えた。
 そこで消費者金融社員を次に調べることにした。
 その人物(E氏)は年齢26歳。独身者、入社4年目だった。事件当日は年休を取って自宅にはいなかった。近所の人の話によると、台風が近づいていた6月28日の夜、風と雨が強まっているのに車で出て行ったのではよく覚えていた。自宅を出たのは午後7時30分頃だったと話した。
 担当刑事はこの人物が事件当日に高浜町の居酒屋(ウェーブ)で被害者と飲んでいたのではないかと疑った。
 数日後の日曜日、この人物の自宅を訪ねて任意で警察署へ来てもらった。本人は非常に驚いたが、事件当日のことを次のように話した。
「あの日は、仕事を休んで朝から舞鶴市瀬崎の親戚の家に行き、瀬崎漁港で海釣りをしていた。台風はまだ紀伊半島の南海上だったので天気は悪くなかった。夕方になって帰宅してから 瀬崎の親戚の家から電話があって、漁港に停めてある自分の釣りボートが流されそうなので手伝いに来てくれといわれた。波も高くなって午後9時過ぎまで作業をしていた」
と話した。
 親戚の人に電話で確認すると(E氏)はその夜は親戚の家に泊まり、翌日綾部の自宅に戻ったと答えた。担当刑事が疑いがあると思われた5人にはすべてアリバイがあるのだ。
捜査はふり出しに戻った。担当刑事はこれら5人以外の者を調べる必要が出て来たのだ。残りのシルバーメタリックのトヨタカムリの所有者の中に間違いなく犯人がいるはずなのだ。いったい誰だろう。担当刑事は捜査のやり直しをはじめた。
 残りの会社員10人、自営業6人、公務員2人、無職1人を調べることにした。しかし事件当日及び住民によって目撃された日時には多くがアリバイがあり、捜査は難航した。
しかしその後第2班の調査によって、捜査は大きく進展することになった。(つづく)











2025年4月2日水曜日

(連載推理小説)小浜線電車轢死事件

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 第2班の捜査は、同じく事件発生から3日後に開始された。担当刑事は、被害者(浅井武史)の住居である白木アパートの捜索を先ず行った。管理人の付き添いで被害者の部屋へ入れてもらった。部屋は2階の202号だった。部屋は6畳2間で台所、トイレ、風呂があった。日当たりのよい北側の6畳に机と椅子があり、本棚には週刊誌や文庫本などが入っていたが、株式や金投資の本も多かった。机の上には何もなかった。パソコンが置かれていた跡があり、何者かが持ち出したようだ。携帯、スマホなども無かった。押入れの中に簡易な金庫があり、鍵が開いており、開けて見ると預金通帳、印鑑などが無くなっていた。
「留守中に誰か入ったな」
 担当刑事は管理人に入居者は何人か尋ねた。
 管理人は全部で6世帯、1階は4世帯、2階は2世帯と答えた。
 刑事は各部屋を回って事件当日の6月28日の夜、被害者の部屋に誰かやって来なかったか尋ねた。
 各部屋の住人は、誰も気づいていなかったが、102号室の住人が、事件当日の夜、2階へ誰かが駆け上がる音を聞いていた。
「その日は遅く帰宅してお風呂に入ろうかと思っていたとき、外で階段を駆け上がる音を聞きました。午後10時半頃でした」
「その足音は202号へ入りましたか」
「たぶんその室だったと思います」
「何時頃に降りてきましたか」
「お風呂に入っていたので知りません」
 刑事は話を聞いて、階段を登って行ったのは被害者を殺害した犯人ではないかと疑った。
 アパートの住人の話によると、被害者の男性は、いつも車を駐車場に置きっぱなしにしており、普段は自転車を使っていた。車はブルーのカローラだった。免停中で車の運転が出来ないためだった。
「浅井武史さんはどんな仕事をしていましたか」
 管理人に尋ねると、
「ホームセンターで働いていました」
 ほかの入居者に被害者の人物像を尋ねてみると、あいさつもするし、明るい性格の男だという印象だった。
 いつも部屋の中は静かで、夜は遅くまで照明が着いていた。めったに人も来なかったが、1か月前から夜遅くに誰かが階段を登っていく音を聞いたと入居者は話した。夜になってからで、どんな人か見たことがないので人相などは知らないといった。二、三度シルバーメタリックの車が道路わきに駐車していたのを見たと言った。
 担当刑事はそれらのことを手帳に細かくメモした。
 恐らくこの部屋に忍び込んだのはシルバーメタリックのトヨタカムリに乗っていた人物だと刑事は推察した。犯人は、事件当夜、青葉トンネルの入り口付近で被害者を電車で殺害した後、車でこのアパートへやって来たのだ。金品を奪うためだろう。殺害した被害者の部屋の鍵を持っていたので、容易に入れたはずだ。でもパソコンまで持ち出しているのはどうした訳だろう。
 刑事が部屋の中を念入りに捜査していた時、ゴミ箱の中に紙屑がたくさん入っているのに気づいた。取り出して確認するとそれはメモの切れ端で、何かを計算していたような跡があった。
「これは損益を計算したものだ。株式か何かの投資商品だな」
 刑事は部屋の写真を撮り、外へ出た。
 2日後、被害者が働いていたホームセンターを調べることにした。ホームセンターは福井銀行のすぐ向かいにあった。その前を国道27号が通っている。
 ホームセンターの店長は荷物の仕分けをしていた。
「警察の者ですが、この店に勤めていた浅井武史さんのことで少しお話を伺いたいことがあります」
「浅井君ですか。5日前から無断欠勤ですよ。連絡がないので困っています、どこへ行ったのかぜんぜん知りません」
「浅井さんはいつからここで働いていたのですか」
「2年前からです。明るい性格の男ですけど」
「浅井さんは、休日は何をしていましたか」
 店長は刑事が何を調べにきたのか不思議に思ったが、
「彼は高浜のギターサークルに入っていました。休日はギターの練習に行ってました」
「サークルの名前はわかりますか」
「一度聞きましたが、忘れました。週に一度、練習があると言ってました」
「ほかに趣味などはなかったですか」
「お酒が好きでしたから、よく居酒屋へ行ってました」
「それだったら、ギターサークルの人たちとも一緒に飲みに行ってたでしょう」
「演奏会が終わると行くといってました」
 店長から話を聞いて、担当刑事は店を出た。
 翌日、被害者の財布の中に入っていたレシートに記載された居酒屋を当たってみた。居酒屋の名前は「ウェーブ」で高浜駅から少し離れた場所にあった。
 店に入るとすぐに店長を呼んで事情を話した。店は準備中だったので、店員をひとりひとり呼んで聞き込みをした。
 店員のひとりに、被害者の顔写真を見せたとき、次のような重要なことを聞いた。
「その写真の方は、よく店に来られていました。ホームセンターで働いておられたので顔は知っています」
「お店には誰と来られていましたか」
「あの人はクラシックギターのサークルに入っていていつもサークルの人たちと7、8人で来られました」
「なんというグループ名ですか」
「確か「あじさい」とか聞いています。高浜町文化会館や公民館などでよく演奏会をしていました」
「台風第7号が来た6月28日は来店されましたか」
「はい、凄い雨の中、歩いて来られました。あの日は客が少なかったのでよく覚えています」
「そのときも7~8人でしたか」
「いいえ、その日は2人でした」
「時間帯はいつですか」
「午後8時過ぎでした」
「相手はどんな容姿の方ですか」
「眼鏡をかけた背の高いグレーのスーツと青いネクタイの若い方で、食事する時以外はずっとマスクを掛けていました。仕事帰りのようで、業務用の鞄を持っていました。いつもはギターサークルの演奏会のことばかり楽しそうに話しておられましたが、そのときは熱心にお金の話をしていました」
「どんな会話でしたか」
「料理とお酒をテーブルに運んでいた時に聞いたのですが、なんでも、投資で多額の利益をあげているとかいっていました。」
「その眼鏡の人もお酒を飲んでいましたか」
「いいえ、ウーロン茶だけでした」
「その時のレシートを見ると、二人が清算を終わってお店を出たのは21時10分ですね」
「そうです。相手の方は車で来たようです」
「車の種類は覚えていますか」
「いいえ、確認していません」
 刑事はそれらのことを手帳にメモした。
「この写真の方は、その眼鏡をした男性とその日以前に来店したことはなかったですか」
「確か、ひと月前に一度来店されました。でもどんなことを話しておられたのか知りません」
「そのときもグレーのスーツと青いネクタイでしたか」
「はい、同じ服装でした」
 担当刑事は、「ウェーブ」の店員から話を聞くと店を出た。
 警察署に戻ったあと、これまでの聞き込みの内容をまとめてみた。「ウエーブ」の店員の話では被害者は何かの投資によって多額の利益をあげて、そのことを眼鏡とマスクを掛けたスーツを着た人物(銀行員か証券マンと思われる)も承知しており、その多額の金を金融機関に預けるか、あるいは投資に回すかの相談をしていたのではないかと推察した。しかしその人物は、内心ではその金を着服することを考えており、事前に被害者を殺害する計画を立てていた。それが今回の事件の動機ではないかと疑った。
そうだとすれば事件当夜、被害者と「ウェーブ」で会っていたその男のことを徹底的に捜査する必要がある。また、被害者が入っていたギターサークルの会員の中に、被害者が投資で多額の利益を出したことを知っている者がいないかも調べる必要がある。
 第2班の担当刑事は第1班の刑事とお互いに情報交換を行いながら捜査を続けた。(つづく)







2025年3月3日月曜日

(連載推理小説)小浜線電車轢死事件

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 第1班による捜査は3日後に行われた。担当刑事は先ず事件現場の聞き込みから開始した。事件当夜、殺害された現場に誰かやって来なかったか聞き込みを行った。
 轢死事件のあったこの地区は、民家が40戸しかなく、住民以外の者がここへやって来ることはほとんどない。この地区にやって来た者があればすぐに眼に着くはずである。
 その結果、集落のある民家の50代男性から次のような情報が得られた。事件当日の午後9時40分頃、残業を終えてこの集落の自宅に帰って来たその男性が、轢死現場から70メートル離れた場所にある踏切を渡ろうとしたとき、踏切横の狭い空き地に、シルバーメタリックの乗用車が駐車しているのを見かけた。エンジンは止まっていてライトも消えていた。人は乗っていなかった。その時間帯は風と雨が強まり、車の中の様子はわからなかった。車のナンバーは覚えていないが、車種はトヨタカムリだと話した。
 担当刑事は、その時間は轢死時刻の約30分前に当たるので、恐らく犯人がその車に被害者を乗せてきて轢死現場まで運んでいたのではないかと推察した。この目撃情報は非常に重要なものである。
 その男性の話を聞いて担当刑事は、犯人は事件当日以前に、ここへ下見に来ていた可能性があると考えた。引き続き集落を一軒ずつ回って聞き込んだ結果、次のような情報を40代の主婦から聞いた。
 それは事件のあった1週間前の6月21日午後1時30分頃、同じ踏切の空き地にシルバーメタリックの車が停まっていた。20代の眼鏡を掛けた大柄な若い男性がマスクをして乗っていた。顔はよくわからないが、ブルーのネクタイをしていた。この集落の人ではなく見たこともない人だった。車は京都ナンバーだったと話した。
 担当刑事は、50代男性と、40代の主婦からの聞き込みで、その人物は京都ナンバーのシルバーメタリックのトヨタカムリでこの場所へ下見に来ていたのではないかと疑った。京都ナンバーの車であれば舞鶴市方面から青葉トンネルを抜けて、この地区へ入って来たと思われる。更に担当刑事は、下見に来たのはこの地区だけではないと考えた。頻繁に舞鶴市(京都府)方面からやってきたのであれば松尾寺駅から西へ1キロ先にある志楽交番の前をよく通過したのではないかと考えた。刑事は志楽交番へ問い合わせて確認してもらった。
 しかし交番の巡査は、
「シルバーメタリックのトヨタカムリですか、いや、見た覚えはありません。何度もこの国道を走っていったのなら一度くらいは見たと思いますが」
との返答だった。
 意外な答えに刑事は驚いたが、京都ナンバーの車であれば間違いなく京都府側からやってきたのである。
「轢死事件があった夜、その車はトンネルを抜けて舞鶴方面へ逃げて行った可能性があるが、見なかったか」
 巡査は、
「その夜は凄い強雨と風でとても外の景色は分かりませんでした。その時間帯はほとんど車は通らなかったと思います」
と返答した。
 担当刑事は、それならば犯人は国道27号以外の道を使ったのではないかと考えた。刑事の一人に、舞鶴市を通っている国道27号以外に高浜へ通じる道を調べさせた。その結果、京都市方面から舞鶴市へ向かう同じ国道27号の京都府綾部市山家の信号から山間を通って高浜、小浜方面へ通じている府道1号があることが分かった。綾部市は舞鶴市の南に位置する隣の市である。この府道を利用すれば舞鶴市を通過せずに直接、高浜、小浜方面へ行けるからだ。また交通量も少なく道幅も広い道なのである。
「犯人はその道を使った可能性があるな」
 担当刑事は、早速、山家の交番に問い合わせて事件当日から数か月前に、シルバーメタリックのトヨタカムリが頻繁に通らなかったか確認することにした。
 数日して山家の交番から連絡があり、6月上旬頃からその道を度々シルバーメタリックの乗用車が走って行くのを地域の住民が目撃していた。
 その目撃情報の中で重要と思われるものが一つあった。それは府道1号沿いの川上村の集会所の前にジュースの自動販売機があり、その前でシルバーメタリックの乗用車が停車しているのを農家の人が度々目撃していたのだ。ジュースの自動販売機はこの場所にしかなく、夏場や冬場はよく車が停車してジュースを買っていく。シルバーメタリックの車も停まっていた。顔は覚えていないが背の高い眼鏡を掛けたマスクをしたグレーのスーツ姿の若い男性だったと話した。
 担当刑事はその車は犯行に使われたものではないかと疑った。
 翌日、高浜町の交番から次のような新たな情報が小浜警察署に寄せられた。
 その情報は高浜港と高浜海水浴場の駐車場に、6月に入ってから、度々シルバーメタリックの乗用車が停まっているのを目撃した住民がいたのだ。6月5日の午後3時頃と、6月8日の午後4時頃、高浜港の船着き場に同色の京都ナンバーのトヨタカムリが停まっており、マスクと眼鏡を掛けた背の高いスーツ姿の若い男性が海を見ていた。また6月12日午後2時頃と6月18日午後4時頃には高浜海水浴場の駐車場に同色の京都ナンバーのトヨタカムリが停まっていた。人は乗っていなかったが、砂浜に背の高いグレーのスーツ姿の若い男性が長い時間海を見ていた。暑いのにマスクを掛けて海を見ていたのでよく覚えていた。まだ梅雨時期なので海水浴客は少なく、車の数も少なかった。砂浜で何をしていたのか分からないと話した。
 捜査本部ではその人物は、府道1号の川上村のジュースの自動販売機の前と、事件現場の青葉トンネンル近くの踏切の空き地に駐車していた同一人物ではないかと疑った。車と年齢、容姿、衣服などが一致するからだ。捜査本部では、この人物が事前に被害者を殺害する場所を調べていたのではないかと推察した。また事件当日は豪雨で、犯人はその悪天候を利用して殺害を計画していた可能性が考えられる。
 担当刑事は近畿運輸局(京都運輸支局)に問い合わせて、京都ナンバーでシルバーメタリックのトヨタカムリの所有者を調べてもらった。目撃情報で年齢が20代なので調査も限定される。また土地勘があり(高浜町に詳しい)ので遠方の人間とは考えにくい。手始めに舞鶴市、宮津市、綾部市、福知山市などを限定に調べてもらった。
 1週間後、京都運輸支局から次のような回答があった。20代でこの車種の所有者は、舞鶴市で12人、宮津市で9人、綾部市で11人、福知山市で13人であることが分かった。
この中に、事件当日にその車種の車に乗ってこの地区へやってきた人物がいると考えられる。犯人が国道27号を使った形跡がないことから、舞鶴市、宮津市方面の人間の可能性は少ない。反対に綾部市の山家の信号から高浜、小浜方面へ向かう府道1号で度々目撃されていることから、綾部市と隣市である福知山市の人間である可能性が高くなった。その理由から綾部市、福知山市の2つの市の所有者24人について重点的に調べることにした。(つづく)










2025年2月6日木曜日

(連載推理小説)小浜線電車轢死事件

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 福井県高浜町青郷のJR小浜線青葉トンネル入り口付近で、若い男の轢死体が発見されたのは台風第7号が若狭湾を通過した6月28日の夜だった。その日は台風の影響で夕方から夜にかけて風と雨が強まった。このトンネルは福井県と京都府の県境にあり、トンネルを抜けた1キロ先には京都府舞鶴市松尾寺駅がある。この付近は小浜線と国道27号が並行するように走っている。
 当日の午後10時15分頃、集落の農家の人が、懐中電灯を持って田畑の様子を見に行った時、降りしきる雨の中、トンネル入り口付近の線路の周囲に服の切れ端が散在しているのに気づいた。そばに行って見ると、線路のあちこちに血の付いた服の切れ端や肉塊が飛び散っているのに驚いた。それは電車に轢かれた人間の死体だと分かった。
すぐに4キロ離れた高浜交番に電話して巡査に来てもらった。ミニパトカーでやって来た巡査は、降りしきる雨の中、現場を見ると、
「これは酷いな。最終電車に轢かれたな」
 巡査は携帯で小浜警察署に連絡した。小浜警察署ではその連絡があった数分前に、小浜駅から敦賀駅発西舞鶴行きの最終電車が午後10時06分頃、同トンネル入り口付近で、野生動物らしいものを轢いたという連絡を受けていた。この場所は緩やかなカーブになっており、前方を確認しにくい。電車の運転手の話によるとその時刻に現場に差し掛かったとき強雨のため視界が悪く、何かを轢いような感触があったが、急停車はせず、松尾寺駅に着いてから報告したと話した。
 遺体発見後30分して小浜警察署からパトカー4台が現場へ駆けつけた。すぐに鑑識官による現場鑑識が行われた。その騒ぎに驚いた集落の住民が傘をさしてその様子を見に来たが、警官の指示で、現場鑑識が済むまで現場に近づかないようにしていた。20分遅れで二人の刑事を乗せたパトカーが到着した。雨はやや小降りになった。
 二人の刑事はさっそく現場を視察した。鑑識官による遺体の状況は次のとおりだった。遺体は4つの部分に切断されており、一つは頭部、一つは胴体、両足が2つ。頭部は轢死した場所から右側の草むらの中から見つかった。距離にして13メートルも飛んでいた。胴体は両腕が付いており、線路からわずかに5メートル離れた場所で見つかった。右足と左足は太腿部分から切断され、8~9メートル離れた田んぼの中で見つかった。
 ほかに轢死現場から西側20メートル離れた田んぼの中から白いマスクが発見された。風が強かったため飛ばされたものと思われる。被害者が付けていたものかは不明。
 二人の刑事はその状況を見て、轢死者は線路上に真横に寝た状態で電車に轢かれたと推察した。頭部を調べると酒をかなり飲んでいたと思われるようにアルコールの匂いがした。しかしこんなところに一人で来るはずもないので、誰かにここまで連れて来られて意図的に殺害されたものと推理した。
 衣服のほかには茶色のスニーカーを履いていた。ズボンのポケットに、財布とメモ帳が入っていた。本人を確認する免許証などはなかった。財布には一万円札1枚と千円札6枚とわずかな小銭とレシートが数枚入っていた。メモ帳には乱雑に数字が書いてあった。刑事たちはこれらの遺留品をさっそく持ち帰って調べることにした。
 初動捜査は雨の中で約6時間にわたって行われた。遺体は遺体搬送車に乗せられて鑑識課に回された。その後1週間ほどこの場所は立ち入り禁止になり、警察が轢死した周囲を丹念に調べていた。
 小浜警察署では現場の状況から他殺が疑われるので直ちに捜査本部を立ち上げた。
 数日後、鑑識課から次のような解剖結果が報告された。
採取された指紋から被害者の氏名、本籍、住所、年齢などが特定できた。氏名は浅井武史、本籍は福井県小浜市F町21番地。住所は高浜町S5番地(白木アパート)。年齢26歳。前科なしだが、今年3月、若狭自動車道路でスピード違反と危険運転で免許停止中になっている。そのときに取られた指紋より確認。被害者の血液型はA型、身長161㎝、体重53㎏。小柄である。胃の中からアルコールと睡眠薬が検出された。アルコールはウイスキーであることが分かった。被害者は事前にこれらを飲まされていたのである。頭部は外傷があるが判別可能。胴体は内臓が半分近く飛び散っていた。両足は切断部分以外損傷が少ない。衣服は水色のシャツ、紺色のジーンズ。胴体部分の3メートル離れた場所に腕時計が外れて落ちていた。轢死時刻に針が止まっていた。死亡推定時刻は当日午後10時06分。死亡前は熟睡していたと思われる。鑑識課からこれらのことが報告された。
 当日は上述のように台風第7号が強い勢力を維持しながら紀伊半島を上陸し、その後北上を続け、夜に若狭湾を通過した。福井県でも台風の接近に伴って雨と風が強まった。
 そのような天候だったので、電車の運転手は雨による視界不良のため、動物か人かの確認ができず、そのまま通過した。このあたりは山が近く、夜は頻繁に野生動物が出没する。これまでにも幾度も野生動物を轢いた事例があった。
「今回の電車による轢死は、現場の状況から初動捜査どおり他殺が考えられる」
 捜査課長は現場の様子から、何者かが被害者をこの現場に運んで線路上に寝かせて電車に轢かせたと想定した。
 捜査課長の指示により、捜査は2班に分けられて行うことになった。第1班は、被害者を現場に運んで殺害し、その後逃走した人物の行方を追うこと。また事件当日及びそれ以前に事件現場に犯人と思われる人物が住民によって目撃されていないか聞き込みを行うことである。
 第2班は、轢死した現場で収集された遺留品から被害者の身元を調査し、殺害された動機などを調べることだった。(つづく)







2025年1月2日木曜日

(連載推理小説)夢遊病者の犯罪

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「夢遊病者の分析と行動心理の研究」

 私は大学の医学部で精神病者の臨床を行う内に、夢遊病の研究に時間を費やした。組織の中での仕事が嫌いな私は開業医としてつつましく生活をしていた。その片手間に無意識の状況下で起こる夢遊病の研究に没頭していたとき、ある実験がしてみたくなった。それは人間を自分の思い通りに行動させることが出来るかどうかの実験だった。それが可能であればこれまでの私の研究の立証もできるからだ。はじめは夢遊病の症状のある患者を意図的に歩かせたりしていたが、やがて彼らに仕事を与えることを思いついた。恥ずかしい話だが、医院を開業したにもかかわらず、人当たりが悪い私は評判も悪く、来院者はほとんどなく、私はいつも金欠病に悩んでいた。また私には心臓に持病があり、常にその治療のために多額のお金が必要だった。私はそれらを解決するために別の仕事をしなければならなかった。しかしそれはずいぶん危険を伴う仕事だった。他人の家に忍び込んで金品を奪うことだったからだ。先ず、どんな鍵でも開けられる技術を習得しなくてはならなかった。幸い私は医学部の学生の頃、合鍵を作る会社にアルバイトで働いたことがあった。そこでどんな鍵でも開けられる技術を習得した。その技術を夢遊病者に教えることによって目的を達せられるのだ。
 私は臨床の時に使っていた多数の夢遊病患者のリストを所持していたので、氏名、住所などの個人情報を容易に手に入れることが出来た。私はそのリストの中から、私の仕事をこなせる者を選んだ。私の仕事を達成させるにはどんな鍵でも開けられる器用さが必要なのである。だから不器用な者は除外した。私は職業に注目した。リストの中から器用さが求められる職業、例えば工芸職人、時計修理師、絵画修復師、美容師、理髪師などを選んだ。これらの職業に従事している者は習得が早いからだ。
 次にリストから選んだ人物の住所を調べた。住所が分かると、毎夜、その人物の家に行き、息を潜めてその人物の行動を監視した。でも、その人物が夢遊病の症状が現在も続いているのかどうかは今の私の仕事を行わせるうえで重要ではなかった。重要なのはその人物が現在も症状が続いていることを信じ込ませることだった。私の暗示によってその人物に現在も症状が続いていることを自覚させることが出来ればいいのだ。なんとか彼らと顔見知りになり、その病気をただで治療する約束ができれば成功である。あとは医院に来させ、催眠によって鍵を開ける技術を習得させることなのだ。
 私は催眠の技術も心得ていた。それについての論文も書いたことがある。あとひとつ重要なことがあった。それは催眠状態の中で人間は善悪の判断が出来るのかどうかの問題であった。その問題について私の実験結果で新事実を知った。無意識の状況下でも人間には善悪を判断する能力が備わっていることだった。一部の悪人を除いて、多数の人間には無意識化でも善悪の判断が出来る。しかしそれは私の仕事を行う上で障害になった。私はその問題を解決する方法を考えそれにも成功した。それは行動させる理由を正当化させればいいのだ。それによって夢遊病者は納得して行動するからだ。例えば、この会社では秘密裏に細菌兵器を製造するための資金を集めているから、その資金を奪って止めさせなければいけないと暗示をかける。夢遊病者はその説明に納得して行動を起こすことが出来るのだ。それによって本人は罪の意識を持たない。まして夢の中での出来事なので、目覚めたときは何の記憶もないからだ。
 次にどのようにして彼らに作業を学習させたかだ。医院で催眠によってそれらの技術を教え込み、実践する時は、夢遊病者に小型のイヤフォンを付けさせて、無線によって指示するやり方だった。そのために私は目的の会社のことを徹底的に調べた。どこの部屋に金庫があるか、鍵はどんなものか、その下準備に私は時間を費やした。そして、行動する日に患者に指示した。作業が終わると私は自分の車に患者を乗せて帰った。
 彼らは夢の中で行った行動なので事件のことは何も覚えていない。しかし、断片的なことは記憶しているようで、作業が終わった後、そのことを話させて記録した。そうやってこの三年ほどの間に、いくつかの犯罪をやった。だが、今回イヤホンを紛失するというミスを犯してしまった。私は焦った。イヤホンには私の指紋が付いているからだ。私には前科がある。警察はそれを見逃す筈はない。逮捕されるのは時間の問題なのだ。心臓の疾患もあり、最近、作業で動き回ったせいか、体調が思わしくない。いろんな薬を飲み、またいろんな医者にかかったが、改善する見込みがないのだ。盗んだ金銭もすべてそれに使ってしまった。この市へ来てひと月経つが、今はもうこのような事件を起こす気力もなくなった。
 数日前、私は交番から盗んだ拳銃をつかって死ぬことを計画した。拳銃を盗んだ理由は万一の時の自殺用だった。しかし、いざ覚悟を決めて拳銃を握ると、手が震えて引き金が引けなかった。これでは死ぬことも出来ないのだ。私は悩んだ、そのときいい考えが浮かんだ。
「そうだ、夢遊病者に引き金を引かせよう。それも私が眠っている間にー」
 私は自分を殺害してくれる夢遊病者を探し暗示を与えた。日程と時間を指定し、拳銃によって私を撃ち殺すように指示したのだ。それによって安心して死ぬことが出来るのだ。今夜、夢遊病者が指示どおりに私の家にやってくる。私はその時、この世と永久に分かれることになるのだ。―
 手記はこのように書かれていた。この手記によってこれまでの事件の全容が解明された。脇田正也は、心神喪失状態であることが認められ拘置所から出ることが出来た。しかし、しばらくの間はいままでの事件の夢を頻繁に見た。(完)