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脇谷正也は、ある町で理髪店を経営していた。店を開店して五年になる。歳は三十六歳。結婚には縁がなくいまだに独身だった。
手先が器用だったので、理髪師になったのは当然といえた。それに子供の頃から模型作りが好きで、自分で制作した世界の帆船模型を店内に飾って客を楽しませていた。
物静かで平凡な人物だったが、人には言えないある秘密があった。それは子供の頃からの病気で、夢遊病の症状が起きることだった。両親は早く亡くなったが、その病気は小学生の頃から現在も続いていた。それは決まって真夜中に起きた。夜眠っていると無意識にベッドから起き出して家の庭や近所を歩き回ったり、近くの公園の中を徘徊したり、べンチに長い時間腰かけていることがあった。でも朝、目が覚めると何も覚えていないのだ。彼にそんな症状があることを知っているのは、亡くなった両親と近所のごく親しい人たちだけだった。
ある日のこと、彼の理髪店に眼鏡をかけた六十歳くらいの細身の背広服の男がやって来た。
「少し切ってくれないか」
「髭は剃りますか、シャンプーは」
男は全部頼むと言った。
脇田正也は手際よくケープを掛けて、さっそく作業を始めた。
慣れた手つきで髪を切っていると、男は周りの帆船模型をちらちら見ながら、
「君が制作したのかね。上手く作るね」
「店が暇なときに作っています」
男はそれを聞きながらしばらく何か考えてから徐に言った。
「私はとなり町で医院を開業している医者だが、君のような手先が器用な人を探している。どうかね、週に一度医院に来てくれないか」
鋏を動かしながら脇田正也は驚いた。
「ご覧のとおり、毎日働いています。そのような余裕はないですね」
「日当五万円払うが、どうだね」
その金額を聞いて、鋏を動かす手が止まった。
「まさか、冗談じゃないのですか」
「いや、本気だよ。大事な仕事をしているから伝って欲しいんだ」
「どんな仕事ですか」
「医院に来てくれたら詳しく話す。なあに、そんなに難しい仕事ではないよ」
脇田正也は当然迷ったが、日当五万円が頭から離れず、
「じゃあ、一度伺いますか」と気軽に答えた。
五日後の月曜日、店が休みのときに、脇田正也はとなり町の医者の医院へ出かけて行った。医院は町はずれの竹藪に囲まれた静かな場所にあり、近くには家もなかった。
二階建ての旧い木造の建物で、正面入口には「兵藤精神科医院」と表札が掛かっていた。ドアを開けて中へ入った。中はがらんとして額縁ひとつ飾られていなかった。受付の机の上に呼び鈴があったのでそれを鳴らした。しばらくして医者がドアを開けて現れた。
「よく来てくれた。どうぞこちらへ」
医者の後ろからついて行った。廊下を歩いて一番奥の部屋に通された。六畳の狭い洋室で、ソファーに座るように言われた。
「ご足労だったね。まあ気楽にしたまえ」
医者は笑って言った。
「医院は先生おひとりですか」
「ああ、昨年まで受付けの女性がひとりいたのだが、家庭の事情で辞めてしまってね」
あいさつを済ませると早速話に入った。
「あなたに引き受けてもらって感謝している。手伝いをする人がいなくて困っていたのだ」
「どんな仕事をするのですか、まずそれを教えてください」
脇田正也は早く仕事の内容が知りたかった。
「仕事のことを話す前に、あなたはご存じないと思うが、私はあなたと二度ほど会っている」
医者の話を聞いて、脇田正也は驚いた。
「どういうことですか、何のことかさっぱりわかりません」
「そうだろう。あなたが覚えていないのは当然だ。一度目は、自宅から五分ほど離れた歩道だ。もう一度は自宅近くの公園の中だ。いずれも深夜だった。私はあなたの住んでいる町へ用事で頻繁に出かける。そのときお会いしたのだ」
脇田正也は声も出なかった。どうして自分の病気のことをこんなによく知っているのだろうか。
医者は話を続けた。
「私は長年、医院の仕事の傍ら、あなたのような病気をお持ちの方の研究を続けている。できればあなたの病気を治してあげたいのだ。あなたにやってもらう仕事は慎重さがいります。その前に先ずあなたの病気を治してからにしたいのです」
医者の話に、脇田正也は訳が分からなくなってしまった。私がやる仕事とは何なのか、またどうして私の病気を治療してあげようというのかさっぱり分からないのだ。
「どうですか、私のいうとおりになさればあなたにとっては二つの利益になります」
脇田正也はどう判断してよいのか分からなかった。仕事の内容を教えてくれないのですぐに断ろうかと思った。しかし日当5万円は魅了的だった。それに無料で自分の病気も治してくれるのだ。脇田正也はしばらく考えていたが、医者の頼みを引き受けることにしたのだ。
その日からその医者との付き合いが始まった。毎週月曜日が来ると、その医者に会いに行った。医者は、ソファーに脇田正也を寝かせて長い時間を掛けて精神分析を行った。医者も疲れてくるのか、ときどきポケットから錠剤を取り出して飲むことがあった。だが、いつになっても仕事の内容を教えてくれないのだ。しかし医者の指示には従わなければいけない。帰るときは約束どおり日当五万円を貰った。(つづく)