2023年11月23日木曜日

(連載推理小説)画廊贋作事件

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 辻昭彦は、数日後の土曜日に舞鶴へ帰った。電車で神崎の自宅へ行ってみたが、戸締りがしてあって引っ越したことがわかった。近所の人に尋ねると引っ越したのは27日だと聞いた。辻昭彦は、そのあと宮津へ行って、宮津T病院へ行き、受付の職員に画家のことを尋ねた。
「先月まで入院されていた山川修さんの奥さんのことで少しお話を聞かせて下さい。私は山川さんの古い友人です」
職人は親切に話してくれた。
「山川さんの奥さんは先月30日に群馬県の病院に転院される予定でしたが、22日の日に呼吸困難のため亡くなられました。山川さんが遺体を取りに来られて、お葬式のあと数日後に火葬されたようです。その後のことはわかりません」
 辻昭彦は職員に礼をいって病院を出た。
「そうだったのか、奥さんは転院前に亡くなったんだ」
 そのあと画家が以前訪ねて行ったMカトリック教会へ行ってみた。辻昭彦は、この教会の神父から意外なことを聞くことになった。
 教会の敷地へ入ると、教会の正門からこの前の神父が出てきた。辻昭彦は、傍へ行って話しかけてみた。
「失礼しますが、画家の山川さんの奥さんのことでお話を聞きたいのですが、私、山川さんの古くからの友人です」
 神父は辻の顔をじろじろ眺めたが、友人と聞いて話してくれた。
「山川さんの奥さんにはお気の毒でした。先月24日にこの教会でお葬式のミサをあげました」
 神父は続けて話した。
「山川さんの奥さんは、絵画の修復技師でした。結婚される前はイタリアにお住まいになっていて、教会の宗教画や美術館の絵画の修復をしておられました。とても腕の良い方で、どんな傷んだ絵でも見違えるように修復されました。画風の違う画家の生涯や特徴をすべてマスターして直してしまいます。画家の素養もある方で自分でもいろんなスタイルの絵を描いておられました。昔、この教会でも、聖堂に飾ってある「十字架の道行き」の絵の修復をしていただきました。ずいぶん古い絵ですから、とてもお金を掛けて直すわけにもいかないので大変助かりました。あとでご覧になって下さい。そういえばご主人さまも絵描きさんだったことはあとで聞きました」
 辻昭彦は、神父の話を聞いてまったく驚いてしまった。
「そうだったのか。奥さんは絵画の修復技師だったのだ。それも才能のある修復技師か」
 神父に案内されて聖堂に飾ってある「十字架の道行き」の絵を見せてもらった。絵は福音書に書かれているイエス・キリストの受難の過程を描いた14数枚の絵だった。神父は修復前の絵の写真を持って来て、比較しながら辻昭彦に説明した。それを見てなるほどと辻昭彦は思った。修復前と修復後では絵の印象がまるで違っている。製作された当時のままの生き生きとした絵に生まれ変わっているのである。
 2週間が過ぎても行方不明になっている画家は依然どこへ行ったのかわからないままであった。12月半ばになると、強い寒気が入り、名古屋でもはじめて雪が降った。名古屋の町はすっかり雪景色になった。商店街はどこもクリスマスムードでネオンがあちこちで輝いていた。
 ある日曜日の午後だった。辻昭彦の公務員宿舎の自分の部屋に小包が送られてきた。投稿先は丹後半島経が岬の西部にある網野郵便局からで差出人は山川修と書いてあった。
 小包の中には手紙と何枚かの冬の岬を描いたパステル画と鉛筆デッサンが入っていた。すぐに手紙を読んでみた。こんな内容だった。

―以前、私の家をお訪ねになり、また私の絵の感想をどうもありがとうございました。あなたも新聞やテレビでご存じだと思いますが、私は数年前から青木繫の贋作を制作していた人物です。訳があって妻のアドバイスを受けながら多くの青木繫の贋作を作りました。妻はクリスチャンでもあり、この仕事に強く反対しましたが、病状が悪くなってからは、医療費を稼ぐためには仕方なく協力するようになりました。今思えば妻には本当に迷惑をかけたと思います。私がこの事件にかかわることになったのは才能のない私の絵ではとても生活費も医療費も稼ぐことが出来なかったからです。色彩の乏しい私の絵は魅力がなくほとんど売れませんでした。結婚してからは妻に助けてもらったせいか色彩も出てきて少しは売れるようになりました。あるとき、私と同じような境遇にある画家から贋作の話を聞かされました。その仕事から得られる収入は、現在の収入よりも高額だったからです。その仕事を引き受ければ今の逆境を乗り越えることが出来ると思いました。腕の良い絵画の修復技師である妻をずいぶん説得して、妻に青木繫の絵のスタイルをマスターさせて、私にアドバイスしてくれように頼みました。私は妻のアドバイスに従って本物とまったく違わない贋作を制作することが出来るようになりました。贋作が完成すると依頼者が府外から車で自宅へ取りに来ました。しかし、この仕事がいつかは発覚して捕まることはわかっていました。妻はいつも神の罰を恐れていましたが、それは現実になりました。妻は先月、転院前に息を引きとりました。血友病で亡くなったのです。もう私は贋作を作る仕事をしなくてもいいことになりました。しかしもう遅いのです。近いうちに逮捕されるでしょう。でも私は本来の自分の仕事が好きです。こんな仕事にかかわらずにいたら、貧しいながらも妻と共作した絵を売って幸せに暮らしていけたと思います。先だっては私の絵の購入をありがとうございました。先日描いた絵を送ります。私が好きな経が岬の風景です。これらの絵を描くのが最後になりますー。
 
 手紙にはそんな言葉が綴られていた。
 辻昭彦は、その手紙を読んでこれまでの疑問がすべてわかったのである。神崎の青い屋根の家の応接間の書棚に入っていた青木繫の画集や美術の研究書は画家の妻が贋作の参考に使っていたのである。妻が入院してからも度々画家は病院にやってきて贋作のアドバイスを受けていたのに違いない。そう考えていたとき、ふと不安がよぎった。 
「この画家は死ぬつもりだ」
 翌朝、辻昭彦は、職場に休みの連絡を入れると急いで名古屋から舞鶴へ帰ってきた。すぐに京都丹後鉄道の電車に乗って網野へ向かった。舞鶴から網野までは1時間半かかる。電車の中で辻はいろんなことを考えた。
「あの画家は、どこの宿に泊まっているのだろう。探さなくては」
 電車の窓の外は時々雷が鳴り、あられが降っていた。天気予報では夕方前から強い寒気が入り、夜は雪だと言っていた。
 網野駅に着くと、いくつかの宿へ行き、画家のことを尋ねた。しかしどこの宿にも泊まっていなかった。
 辻昭彦は、手紙を持って網野警察署へ行った。巡査部長に事情を話して近くの海岸を捜索してもらうことにした。警官6名で捜索したが、画家の行方は分からなかった。
 海岸は寒々としていた。カモメが海の上を寒そうに飛んでいた。次第に風も強まり出した。
 夜になってから雪が降り出してきた。捜索は雪のために一時中止になった。明日、宮津警察署からも応援が来ると警官はいった。辻昭彦は仕方なく舞鶴へ引き返すことにした。母親に電話をして今夜は自宅に泊ることを伝えた。
 夜遅く自宅に帰ると母親は夕食を作って待っていた。遅い食事を済ませてその夜は実家に泊った。
 翌日、テレビと新聞で、経が岬西部の岸壁で飛び降り自殺のニュースが流れた。山川修(44歳)職業画家と書かれていた。遺体は一晩中海岸近くの海の上を漂っていたのだ。
 警察の調べで、画家は経が岬の東側の伊根町の旅館に宿泊していたことがあとで分かった。
 画家は数日間、経が岬付近を歩き回って海の絵を描いていたのである。自殺する日の夕方、網野の郵便局から絵を小包に入れて辻昭彦に宛てて郵送したのである。(完)