2023年7月13日木曜日

(連載推理小説)画廊贋作事件

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母親は今年89歳になる。頭は呆けてきているが、相変わらず元気で安心した。夕食は久しぶりに新鮮な魚を食べてほっとした。やはり地元で採れる魚は美味しい。食事が終わってお風呂にもゆっくり浸かった。久しぶりに自宅へ帰ってほっとした気分だった。
「明日、午後に神崎へ行ってくる」
 母親にいってその夜はぐっすり眠った。
 翌日、天気が良かったので、昼ご飯を食べてから電車で神崎へ行くことにした。自宅近くにバス停があり、バスに乗って西舞鶴駅に行き、13時30分発の宮津行きの京都丹後鉄道に乗って神崎駅で途中下車した。西舞鶴駅から神崎駅までは20分で行ける。駅は寂しい小さな無人駅だ。この駅からさらに15分行くと終点宮津駅に着く。
 神崎駅を降りて東へ10分ほど歩いて行くと松林が見えてくる。松林の向こうは海である。広い駐車場には軽トラックが一台止まっているだけだった。夏になると、この駐車場は海水浴客でいつも車でいっぱいになる。
 今日は晴れの天気で海は穏やかだ。10月はじめの砂浜は、漂流物や木の枝、貝殻などたくさん落ちていた。あまり美しい砂辺ではない。砂浜には長い遊歩道があり、散歩している人がいた。地元の人だろう。
 辻昭彦は、画家の家を捜す前に、画家が描いた絵の場所を探してみることにした。
「神崎の海岸」の絵の構図は、由良側(西)から東へ向かって海岸線を描いた絵だった。絵の左側は海で、テトラポットに波が打ち寄せていた。その波の様子を見ていたとき、ふと昔のある有名な画家の海の絵を思い出した。誰の絵だったかしばらく考えたが浮かんでこなかった。左側は砂浜が描かれ、絵の中央の奥には金ケ岬が描かれてあった。
 遊歩道を歩き回って、ようやくその場所を見つけた。絵に描いたとおりの風景だった。眺めていると、耳にカモメや海鳥の鳴き声が聞こえてきた。潮の匂いも懐かしい。遊歩道のすぐ後ろは松林で、その周辺にはボート小屋や公衆トイレなどがあった。
 そのボート小屋の近くで麦わら帽子をかぶったひとりの中年の男がスケッチブックを広げて絵を描いていた。
 辻昭彦は、その絵が見たくなった。そばまで歩いて行くと声をかけてみた。
「今日はいい天気ですね。いつもここで描いているんですか」
 麦わら帽子の中年の男は振り向くと、視線を辻の方へ向けた。
「ああ、今日は風も弱くて、波も高くないから絵を描くにはもってこいの日だ」
 中年の男は地元の人で、にこやかに答えた。男は鉛筆と色鉛筆を使って、テトラポットに打ち寄せる波を上手に描いていた。水平線の向こうには小島が描かれている。
 辻昭彦はこの男に、ここで油絵を描いている画家のことを尋ねてみた。
「昨日、名古屋から舞鶴の実家へ帰ってきたんですが、神崎で洋画を描いている画家さんの家をご存じですか」 
「あんたその画家に会いにやってきたのかね」
「ええ、名古屋の画廊で、その人の絵を買ったのです。店主からその画家は神崎の人だと聞いたもので」
 中年の男は辻昭彦の話を聞いて答えた。
「その絵描きの家は、向こうの松林の後ろにある青い屋根の2階建ての家だ。ひょろっとした背の高い無口な男で一度も話したことがない。以前は奥さんと二人で暮らしていたが、最近は奥さんの姿を見たことがない。数年前までは画材道具を持って、由良や宮津、天橋立、経が岬などへ電車に乗って制作をしに行っていた。いつも黒いベレー帽を被っていたよ」
 中年の男はそう話した。辻昭彦はほかにもいろいろと尋ねてみた。
「奥さんがおられるんですね。地元の人なんですか」
「奥さんは宮津の人だ。その画家は十五年前に府外からやってきた。関東出身だとか近所の人から聞いているが、どの県だか知らない。最近は外出もしないで家の中で絵を描いているという噂だ。どんな絵を描いているのか全然知らない。散歩のときに出会ってもあいさつもしない変わった男だ」
 辻昭彦は、中年の男から話を聞いて、変わっているというその画家にぜひ会いたいと思った。画家の家はすぐそこなのだ。たぶん在宅だろう。
 中年の男と別れて、さっそく向こうの松林の後ろにある画家の家の方へ歩いて行った。5、6分ほど歩いて行くと、道路の傍に2階建ての青い屋根の家が建っていた。周囲にも家が何軒かあった。敷地の中にガレージがあり、シャッターは閉まっている。
 辻昭彦は敷地の中へ入ると玄関まで歩いて行った。玄関にはブザーがあった。ボタンを押す前に躊躇した。
「誰かもわからない自分に会ってくれるだろうか。自分はこの家の画家の絵を一枚買っただ  けなのだ」
 思いながら引き返そうかとも考えた。でもせっかくここまでやってきたのだ。ダメでもともとなのだ。そう考えながらボタンを押してみた。
 ブザーの音が耳元にも聞こえた。不安な気持ちで玄関の扉が開くのを待った。
 ところが中は静かで何んの音も聞こえなかった。
「やっぱり留守か」
 しばらく待ったが誰も出てこなかった。辻昭彦はあきらめて帰ることにした。敷地を出て、もう一度玄関の方を振り返ったが、誰も出てくる様子はなかった。駐車場まで戻って来ると、さっきの軽トラックが一台だけ止まっていた。辻昭彦はそのまま神崎駅の方へ歩いて行った。
 西舞鶴駅に着いてから、近くの喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。新聞や週刊誌などを読んでいたら時間がずいぶん経っていた。バスに乗って自宅に帰ったのは午後5時過ぎだった。夕飯が出来ていたのですぐに食べた。
 お風呂に入ってから、「明日、もう一度神崎へ行ってくる」と母親に言ってその夜は早めに寝た。
 翌日、辻昭彦は午後から電車で神崎へ出かけた。神崎駅を降りて海岸の方へ歩いて行った。駐車場には昨日の軽トラックが置き忘れたように止まっていた。
 辻昭彦は、青い屋根の画家の家の方へ歩いて行った。
 敷地の中に入り、玄関のブザーを押した。けれども誰も出てこなかった。今日も不在だ。
 辻昭彦はがっかりして敷地から出た。そのとき、隣の家から年取った婆さんが出てきた。辻昭彦は、その婆さんに尋ねてみた。
「隣の家の方はお留守なんですか」
 その問いに婆さんは、
「隣の方のことはよく知らんのです。大変無口な方ですから。昨年まで奥さんと一緒に住んでおられましたが、離婚されたのか、ご病気なのか最近は見かけません。普段はひとりで生活しておられます。ときどき夕方に遊歩道を散歩している姿を見かけます」
 辻昭彦は、隣の家の人が画家であることを話した。すると婆さんは、
「ええ、15年前から住んでおられます。お仕事は画家さんです。来られた頃はよくこの海岸の絵を描いておられました。いつもベレー帽を被って、絵の道具を持って電車であちこちへも行っておられました。でも最近は見かけません」
 辻昭彦は、この家に誰かやってこないか尋ねてみた。
 すると婆さんは、
「ときどき乗用車がやって来ます。府外ナンバーの車ですよ」
 婆さんはそれ以上のことは話さなかった。辻昭彦は婆さんに礼を言ってその場を離れた。
 せっかくやって来たのに、画家に会うことは出来なかった。でもたくさんの貴重な話を聞くことができた。
 帰りの電車は乗客が数人だけだった。座席に座って、昨日、海岸で絵を描いていた中年の男と、隣に住む婆さんから聞いた話をもう一度頭の中で整理した。
 神崎に住んでいる画家は既婚者で、あの青い屋根の家に十五年前から住んでいること、最近は外で絵を描いていないこと、ときどき府外ナンバーの車がやってくることなど。
 西舞鶴駅へ着くと、バスで自宅へ帰ってきた。
 母親が夕食の準備をしていた。タイ、アジ、イカ、甘エビがお皿に載っていた。
「帰ってきたんか」
 味噌汁を作りながら母親がいった。
 今夜は刺身が食べられるのだ。夕食が済んでからお風呂に入り、しばらく画家のことを考えながら眠った。翌朝、車で名古屋へ帰った。
                                   (つづく)